三河雑兵心得: 8 小牧長久手仁義 | ギッコンガッタン 

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 本能寺の変のドサクサに紛れて信長から家康は、甲斐信濃の二国を奪います。かくて家康は、都合5カ国を有する大大名になります。とは言え、新しい領土は、元は、家康と戦った武田方の国衆が多くを占める不安定な土地柄です。しかも、それに大事な武田方の武将が急死したのです。このため、有能な家臣を派遣して睨みを聞かせ心服させる必要がありました。

 

 このため、東信濃小諸に腹心の一人である大久保忠世を派遣する事となります。茂兵衛は、忠世の配下として同行する事になりました。そんな折に、彼は、自分の部下の小栗金吾を鎧が許される鉄砲隊寄騎の地位に上げようと思っていました。しかし、かつての配下だった平八郎の義理で愚鈍な花井を寄騎にせざるを得なくなり頭を痛めてしまいます。

 

 道案内に使った漁師がかつて武士だった時の因縁があり、小諸に行く道は、近道で信濃にしては、割合高低差が低めの通りやすい場所より険しい難所を越える山道を選ぶ事になります。しかも、ヌカルんだ道の多い悪路でした。茂兵衛達は、悪戦苦闘しながらも小諸に辿り着きます。小諸に着いた後の茂兵衛は、役目で近隣の上田城の城主である真田安房守昌幸に会います。

 

 真田昌幸は、表裏比興之者と言われる何をしでかすかわからない食えない策士として有名な武将でした。ただ、茂兵衛は、彼に妙に気に入られます。また、二人の息子は、親に似ず素直な若者で茂兵衛は、好感を待ちます。ただ、家康と昌幸の間には、喉に刺さった小骨のような嫌な問題がありました。真田領である上野国沼田をどうするかと言う問題です。

 

 家康は、関東の大大名である北条家の和睦の条件として沼田を昌幸から取り上げて北条に渡すと言う約束をしていました。しかし、真田にも良い顔をしていたのです。ただ、もし、沼田を北条に差し出すとしたら、沼田と引き替えになる領地を与えようと考えていたのです。しかし、この事に昌幸がどれだけ応じるかも不透明だし、沼田の代わりの土地も決まっていません。

 

 まあ、宙ぶらりんな状態であり、昌幸は、何かのきっかけで反目するかもしれない危機感があったのです。茂兵衛達が小諸に派遣された理由としても大きな問題では、ありました。そんな中、乙部八兵衛が家康の密書を携えて小諸城に現れます。信長の次男信雄が秀吉と反目して合戦を挑もうとしており、家康に援軍を求めできました。このため、至急浜松に行けと言うのです。

 

 この話を聞いていた小諸城内では、織田家中が信雄よりも秀吉に傾いている状態に筋が通らないと忠世の嫡男忠隣が言います。これに対して八兵衛は、信雄に従っても何の得は無いからと言うのです。この言葉に座の空気は、冷えます。善四郎は、喧嘩腰で八兵衛を冷たく睨みます。八兵衛は、侮蔑した目で善四郎を睨みこれに善四郎は、激昂し脇差しを抜こうとします。

 

 これを茂兵衛は、押さえますが更に茂兵衛が口火を切り三河者は、筋を通すのだと叫び八兵衛に突っかかる勢いでした。忠世の一喝で取り敢えず場は、収まります。そして、小諸城内の空気と同様に浜松城内も秀吉への主戦論が中心だと八兵衛は、伝えます。この場で周囲は、家康の意思を聞きます。忠世は、おそらく主戦論だろうとこの場を収めます。

 

 この後で八兵衛は、茂兵衛と2人きりで話します。隠密として冷静に秀吉の実力と天下の情勢を見る八兵衛は、秀吉に対して和睦派です。茂兵衛は、元百姓で心底三河武士の筋目論に与しないので秀吉相手に勝ち目が無いと分かり、和睦派でした。しかし、先程の場では、主戦派が多勢な空気の中で言い出せなかったのです。しかも、浜松では、主戦派が強硬過ぎると言うのです。これに八兵衛は、辟易したようです。

 

 そして、まずい事に仲人であり、かつての直の上司だった平八郎に榊原康政に井伊直政と言う三人の家中で最強の武闘派が皆主戦派と言うのです。こんな空気の中で服部半蔵や八兵衛のような少ない和睦派の隠密が矢面に立たされているのです。ただ、家康と酒井忠次と石川数正は、おそらく非戦派だけど家中での主戦派に慮り態度を保留しているのが八兵衛にも分かっています。

 

 そんないきり立ちまくっている浜松へ向けて茂兵衛達は、帰路に着きます。その後で茂兵衛は、信雄のいる清洲城に行く家康に着いて行く事になりました。家康は、信雄に秀吉に対して歯向かわないように説得を試みますが、不首尾に終わります。信雄は、信長に器量も能力も全く及ばないバカ殿です。しかし、激しい気性だけは、受け継いでいるので始末におえません。

 

 信雄は、秀吉への和睦を主張すら三人の家臣を誅殺します。ここへ来て、家康は、秀吉と戦わざるを得なくなります。浜松城下は、家康が清洲城に行っている間に平八郎達が戦準備を進めているくらいで士気は、大いに上がっていました。かくて、世にいう小牧長久手の戦いとなります。この戦いは、家康が秀吉方の森長可と池田恒興などの武将を打ち取る勝ち戦でした。

 

 しかし、秀吉の調略に信雄は、乗ってしまい家康の頭越しに和睦してしまいます。家康は、梯子を外された状況になりました。戦で勝ったと意気揚々の主戦派達と家康を頼りにしている反秀吉派の大名達の手前、後に引けない状態でもありました。また、家康が大阪に行くのは、命の危険もあると言う意見もありました。そこで、息子の於義丸を養子として差し出す案となります。

 

 この軍議でなんと家康は、茂兵衛に秀吉と同じ百姓の出としてどう思うかを聞いて来ます。もちろん、茂兵衛は、万座の主流の主戦派を慮り態度をはっきりとさせません。しかし、茂兵衛の本心を知っている家康は、なおも意見を迫って来ます。そこで、茂兵衛は、非戦派である事を告白します。茂兵衛は、怒りまくった平八郎に万座で思いっきり殴られます。以上があらすじです。

 

 今回は、小牧長久手仁義となっていますが、実は、この戦いの記述は、終盤にあるくらいです。もっと、言えば、この巻は、これまでの中でも戦闘シーンの記述は、少なめに思えます。ただ、その分だけ人物描写を楽しめる側面があります。まずは、真田昌幸と息子達と茂兵衛の関わりの所が特徴的です。昌幸の狸さと息子達の素直さの対比が見事です。

 

 そして、相変わらず茂兵衛が妙に人に好かれてしまうキャラもここで発揮されています。また、そんな茂兵衛の良さが発揮される他の場面は、平八郎に任された愚鈍なボンボン気質の花井の教育係となった件でしょう。この花井も茂兵衛がいくら言っても母の願いとばかりに派手な鎧を付けるのを止めませんが素直な所も見えて憎めないキャラです。

 

 そして、後半の見せ場は、秀吉に対しての主戦派と和睦派のせめぎあいの部分でしょうか。主戦派は、本能寺の変後の甲斐信濃争奪戦で四万の北条軍を一万六千で追い払った事や元来の三河武士の強さに過信と言っていいくらいの自信に裏打ちされています。また、その上に信長に対しての嫌悪感と秀吉を成り上がり者として侮っていることも理由にあります。

 

 それに対してお家の平安を第一に考える主権家康や石川和正と酒井忠次などの知性派の家臣は、和睦派です。そして、侍出身でないがゆえに筋目よりも生き残れるかを冷静に考える茂兵衛も和睦派です。しかし、血気盛んな主戦派に和睦派は、殺されかねないほどの強硬さを感じて中々思いを吐露できません。この空気間の表現が見事でした。

 

 ただ、この成りあがっていく秀吉に対しての家康が実は、和睦派であったと言うのは、今までにない解釈で新鮮に感じました。今までの戦国者では、家康がこないだまで自分よりも格下と思っていた秀吉に臣従をする気になれず突っ張っていたという解釈が普通だったからです。今後、この状況から主戦派をどう扱っていくのかが見ものです。次は、家康が曲者・真田昌幸に翻弄される上田合戦の事が描かれますので楽しみですね。