一徹ー智辯和歌山 高嶋仁 甲子園最多勝監督の葛藤と決断 | ギッコンガッタン 

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 本屋でタイトルに駆られて買いました。現在、夏の甲子園を目指す高校野球の地区予選の真っ最中です。その甲子園で春夏通じての通算勝利数68という監督最多勝の記録の持ち主である元智辯和歌山高校野球部監督の高嶋仁氏のドキュメンタリーです。

 

 まずは、高嶋監督にとって最後の指揮となった昨年の夏の甲子園の試合とその後の辞任劇になるまでの様子を書くことから始まります。次に、五島と長崎市で過ごした高校生時代までの貧しい中で野球に惹かれて、上京し日本体育大学に入学するまでが書かれます。

 

 高嶋監督は、そもそもが高校野球の指導者を中高時代の野球経験を通じて希望します。大学卒業後、彼は、思わぬ形で創立して日も浅い奈良の智辯学園に赴任します。そこで彼は、当時の学園理事長に見込まれて野球部にコーチとして関わります。

 

 そして、3年の後、前任者から思わぬ形で監督を託されます。かくて、半世紀近くの長きにわたる高嶋監督の監督人生が始まります。奈良では、同じ県内の強豪校である天理高校の壁に苦しみます。そんな中でも智辯学園を甲子園に行ける強豪校としていきます。

 

 しかし、当時の彼にとっての壁は、それだけでなく、大の負けず嫌いの当時の智辯学園理事長である藤田照清氏でした。彼は、結果が伴わないときのダメ出しが強く、これに対して当時の高嶋監督は、ストレスを大いに感じていたようです。

 

 智辯学園監督として10年程やった後の彼に今度は、出来たばかりの智辯学園和歌山高校への異動が告げられます。もちろん、野球部の監督としてです。しかし、ある程度戦力の整っていた奈良の智辯学園と比べると同好会レベルの野球部の指導という難題が待っていました。

 

 そんな苦しい環境であっても、高嶋監督は、チーム力を着実に上げて行きます。和歌山に移った高嶋監督を悩ました壁は、当時、全国レベルの強豪であった尾藤公監督率いる箕島高校でした。この強豪を意識しながらチーム力を高めていきます。

 

 そして、遂には、和歌山県を代表する強豪として箕島に代わる存在となり、遂には、全国優勝を飾り、現在も智辯と言えば和歌山と言われるくらいの全国的な名声を獲得していきます。しかし、野球部が頂点を極めた後にあと一歩伸び悩む時期が来ます。

 

 また、その頃は、高嶋監督は、思わぬ病気にかかり、体も老いていき、また、かつての主流だった徹底的にしごく指導法が体罰を嫌う風潮の中で古く悪いものとして咎められるようになります。また、監督の下で働くスタッフとの軋轢など色々な問題に苦しみます。

 

 そんな、高嶋監督の監督としての晩年期の心を支えた存在は、平静の高校野球界の最高峰的な存在である大阪桐蔭学園の存在でした。彼は、打倒大阪桐蔭に燃えて闘志を保ちます。とは言え、最後の数年は、去就がいつも話題になる状態でした。

 

 かくて、昨年夏の大きな節目となる第100回大会が高嶋監督の最後の舞台となりました。そして、大会終了後の辞任劇の様子がまた詳しく書かれます。更に監督辞任後の高嶋監督の近況や中谷仁新監督になった智辯和歌山の近況を中心に書き締めています。

 

 全体を通して言えるのが、"一徹"と言うタイトルが正しく高嶋監督そのものを示しています。何に一徹かと言えば、もちろん、野球です。確かに生徒にとっては、大いにしごかれる鬼ではあります。しかし、野球に関しては、手抜きなくグランドに最初から最後までいる人です。

 

 そして、ゴルフや酒やギャンブルのような世間一般の息抜きや気晴らし言うものをしない人でもあります。何より、感じるのが彼の生徒たちへのいや、野球界全体に関する愛情の深さです。そんな彼の人格に生徒や他校の監督達等の周囲が大きく惹かれている様子が判ります。

 

 本当に尊敬すべき凄い人物だと思えました。彼のこの野球人生は、見事なぐらいにドラマ化したら受けること間違いなしに思えます。彼の残した業績は、色褪せずこれからも残っていくでしょう。甲子園で彼の姿を見ないのは、寂しい気がしますが、これからの智辯和歌山に期待はしたいですね。