天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史 | 日本史四方山話

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読んだ本紹介。

平山優・著

 

 

 



天正壬午の乱とは、武田家滅亡と本能寺の変により空白地帯となった旧武田領国、甲斐・信濃を巡る徳川・北条・上杉による争乱のことです。
 

 

大河ドラマ「真田丸」でも描かれたのかな?
 

 

ちょっと未見なので分かりませんが、真田昌幸はこの乱の重要なポジションだったので恐らく描かれたんじゃないかと思います。
 

 

それは著者の平山優氏が、「真田丸」に関わっていたことからも窺えます。
 

 

平山氏は戦国時代の甲斐信濃研究の第一人者であり、今ではポピュラーになったこの「天正壬午の乱」の命名者でもあります。
 

 

そして、それまで詳細が研究されていなかった天正壬午の乱の実態を明らかにしたのも平山氏の功績です。
 

 

本作も非常に綿密な史料研究がなされており、「こんな細かいところまでわかっちゃってるの!?」と驚くほど精密な事実が明らかにされており、本当に面白い内容でした。




さて、1582年(天正10年)3月、武田勝頼が織田信長に敗れ、名門武田惣領家は滅亡しました。

 

 

武田氏が領有していた甲斐信濃上野を手に入れた織田信長は、滝川一益、河尻秀隆ら重臣を送り込み、旧武田領国の支配に乗り出します。
 

 

この過程で甲斐の旧武田家家臣の有力者の多くが殺されてしまいます(これがのちに大きな影響を及ぼします)。
 

 

しかし、その年の6月、本能寺の変により織田信長が死ぬと、織田家臣たちは一斉に自分の本拠地に引き上げます。
 

 

支配開始から3か月しかたっていない状態で、信長亡き後の混乱が予想される中、この地に留まっていても到底無事ではいられないとの判断からでした。




こうして甲斐信濃上野は、大大名不在の空白地帯になってしまったのです。

 

 

この隙をついて、地元の国人衆が武田家や織田家の侵攻により失っていた旧領の回復に動き出します。
 

 

そして織田家の侵攻から解放された上杉景勝、同じように織田家の圧迫から解放された北条氏政・氏直がこの空白地帯を狙って侵攻を開始します。
 

 

徳川家康も同様に動き出しますが、彼はこの時点ではあくまで織田政権の一部であり、信長亡き後の後継者候補であった織田信雄・信孝兄弟に侵攻の許可を申請し、彼らもせっかく領国化した旧武田領を上杉・北条に渡すのは惜しいということで、家康に任せることにします。
 

 

この天正壬午の乱で家康が甲斐信濃を手に入れて強大化したのはあくまで結果であって、言われているような当初から意図していたことではなく、あくまで織田政権の領国維持の一環であったということです。




結論から言いますと、上杉氏は越後国内で新発田重家の反乱を抱えていたこともあり、越後国境近くの信濃川中島周辺を抑えるに留まります。

 

 

徳川・北条との全面的な対決をすることはなく(余裕もなく)、しかし領国は多少増加させることが出来ました。
 

 

徳川氏と北条氏は全面的にぶつかります。
 

 

当初は兵力で圧倒的に勝る北条氏が上野経由で信濃へ侵攻、戦局を優位に進め、信濃はほぼ北条氏の手に落ちかけました。
 

 

また本拠地相模方面から甲斐・駿河へも侵攻し家康を包囲し、家康はかなりの苦境に陥ります。
 

 

しかし家康の在地国人衆への粘り強い交渉と、見事な軍事作戦、それに北条氏の失策が相次いだことも相まって、最終的には甲斐と信濃の大部分は家康の物となり、北条氏は上野を取るに留まりました。




この天正壬午の乱で注目したいのは、旧武田家臣や信濃在地国人衆の動きです。

 

 

以前、武田氏の家臣団についての本の紹介の際にも書きましたが、この時代、どんな大きな大名でも、その土地土地に土着する国人衆と呼ばれる在地領主層を無視して、その国の支配を行うことは不可能でした。
 

 

この時も、上杉・北条・徳川の各氏も、特に信濃の国人衆を自陣に引き込もうと躍起になり、最終的に多くの国人衆を味方にすることが出来た家康が、優位に戦局を進めることが出来ました。
 

 

冒頭でも記した真田昌幸の動きは有名ですが、彼に負けず劣らず多くの国人衆がこの争乱の中で躍動しています。




一人紹介しておきたいのが依田信蕃という人物です。

 

 

もう全く有名ではない人物ですが、この天正壬午の乱の最大のキーマンの一人と言っても過言ではありません。
 

 

彼は信濃東部、上野との国境を接する佐久郡周辺の国人衆でした。
 

 

早い段階で徳川氏に従属したものの、北条氏の侵攻により本拠地周辺の国人衆はほとんど北条氏に流れ、まさに四面楚歌、周囲は全部敵という状況に追い込まれます。
 

 

真田昌幸のように状況を見て、最初は上杉に、次は北条、最後は徳川と、多くの国人衆が昨日はあっち、今日はこっちという行動をとる中、彼は一貫して徳川氏に味方し戦い続けます。
 

 

天正壬午の乱は1582年6月から12月までの約半年ですが、最初から最後まで北条氏の侵攻を耐え抜き、家康の優勢(勝利とは言いにくい)に大いに貢献しました。
 

 

極端に言えば、この依田信蕃の踏ん張りが、後に家康の天下取りに大きくものをいった言えるかもしれません。
 

 

家康は依田信蕃の働きに大変感謝しており、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城、そして当時の家康家臣としては最大級の6万石という大領がのちに与えられたことからも推測されます(その後紆余曲折あり、依田家は越前松平藩の家老を担う家として明治まで存続しています)。




また家康は、信長が根絶やしにしようとした甲斐旧武田家臣たちを保護したことが功を奏し、対北条戦において、地の利を生かし寡兵で大軍の北条氏を何度も打ち破ることに成功しています。

 

 

いかにその土地の国人衆を味方にすることが、大局を動かすのに影響するかが分かります。




この他にも、真田昌幸をはじめ、木曽義昌・小笠原貞慶・諏方頼忠といった国人衆の動きに右往左往する大大名たちの姿が見て取れます。

 

 

家康も成功ばかりでなく、例えば当初は味方だった小笠原貞慶の扱いに失敗し、北条方へ走らせてしまっていますし、真田昌幸なんかへの扱いは最後の最後に大失敗して、後に大きな禍根を残しています。
 

 

信濃の大部分を手中に収めたとはいえ、小笠原、真田といった国人衆を引き込めなかったことが、この後豊臣秀吉の介入を招き、それが秀吉の天下統一への足掛かりとなってしまうことから、家康としても当時は悔やんでも悔やみきれない失策であったと言えるかもしれません。




このように、天正壬午の乱というのは、信長亡き後の戦国時代の帰趨を決定づける原因となった非常に重要な出来事でした。

 

 

また、そのキャスティングボードを担ったのは、上杉景勝や北条氏直、徳川家康といった大大名ではなく、その土地に土着する、または旧領を回復しようとした国人衆の動きでした。
 

 

真田や小笠原のように後に明治まで存続する大名として生き残った国人衆は稀で、その多くは最終的にどこかの家臣になるか、帰農する運命をたどりますが、この時点においては、国人衆が戦国時代を動かしていたといっても過言ではありません。




とかく、有名な武将たちの視点でしか描かれることが無い戦国時代ですが、国人衆に注目して見て行くと、もっと深く当時の様子が理解できることでしょう。

 

 

そういう意味では、国人衆の中では最も知名度のある、真田家が注目されたことは、ある意味大河ドラマの意義だったかもしれませんね。

 

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