読んだ本紹介。
田尻祐一郎・著
今までで一番苦労しました・・・。
ここまで読書が進まなかったのは初めてでした。
思想。
辞書を引くと、「人生や社会についての一つのまとまった考え・意見」とか「哲学で、考えることによって得られた、体系的にまとまっている意識の内容」などと出ています。
人間、多かれ少なかれ、誰もが思想というものを持っていますが、それを理論的に説明できる人はあまりいません。
もしかしたら、思想家と呼ばれる人達ですら、難しいのかもしれない。
それでも何とかそれを体系的・理論的にまとめようとした人達が、社会に様々な影響、というよりも問題提起をしてきて、思想というのは脈々と繋がれてきたように感じます。
僕もはっきりとは言えませんが、思想と哲学・宗教というものは密接に関係していると思います。
思想というものは、科学の進歩とは違い、技術的なものではありません。
その時代・その社会において、人が生きるという過程の中で誰もが思いうる精神的な疑問に答えを出そうとすること。
そんな気がします。
はっきり言って、この本で述べられていることの半分も理解できていないのですが、一応思ったことを書いてみます。
江戸時代を通して、人々の規範となったのは儒教、その中でも特に朱子学でした。
朱子学は封建制、つまり身分制度(いわゆる士農工商)といったある種選民的・排他的思考を軸としています。
時代が進むとその朱子学を批判する国学というものが勃興してきます。
朱子学はもともと中国で生まれたものですが、国学は日本古来からの伝統や言葉を大事にしようという考え方です。
それが進むといわゆる「皇国」日本こそ、世界の頂点に立つべき国であるという考え方が生まれていきます。
また、同じころには蘭学が日本で盛んになっていきます。
「解体新書」に始まる蘭学は、医学に留まらず、西洋の開明的な考え方を日本にもたらしました。
朱子学・国学・蘭学が大きな思想的潮流になり、人々の思想を形成していきます。
面白いことに、排他的なはずの朱子学者は、幕末になると西洋の考え方を受け入れる人が多く出てきます。
外国の良いところを取り入れてもいいじゃないという横井小楠や佐久間象山といった人がいい例です。
国学は「皇国」日本が一番ですからそのようにはなりません。
朱子学と国学が結びつくケースもあり、それがいわゆる水戸学、ひいては尊王攘夷思想になっていきます。
でもこれまた面白いことに、開国派であった幕府が敗れ、もともと尊王攘夷派であった薩長他雄藩が勝利して、明治維新が起こりますが、明治政府は一転して開国・西洋文明の吸収という路線を取りました。
現実的にはそうするしかなかったからです。
その後も第2次世界大戦までは、朱子学的規範をもとに、蘭学的な現実的な進歩路線(富国強兵)を取りながら、国学的皇国思想を肥大させていきます。
そして敗戦により一度全てがご破算となるわけです。
しかし、今も江戸時代に発展した思想が無くなってしまったわけではありません。
先祖を祭ったり、親孝行したりという儒教的感覚、神社に初詣に行き神様にお祈りしたり天皇陛下を敬うという国学的感覚、そして民主主義の形成という蘭学的感覚を僕らは持ち合わせています。
まとまりが無い文章になってしまいましたが、思想というのは元々、人と人の繋がり方を意識の根底に置いているように感じます。
人と人、個人間の繋がりをさらに大局的にしていくと社会生活になり、それが政治になり、国家という枠組みでの処し方に繋がります。
ああ、これ書いててもう頭が無茶苦茶になってきました(笑)
江戸時代でも人類皆平等、尊卑の差、身分の差などないと唱えた人も大勢います。
これは、いつの時代も理想として語られる考え方なのですが、現実は(今も)そのような世界にはなっていません。
難しいですね・・・。
最後に現代に最も合う言葉を紹介します。
江戸後期のちょっと偏屈な画家、司馬江漢の言葉です。
「天地は無始にして開け、其中無始にして人を生じ、是より先、無終の年数に人を生ずる事、無量なり。其中我と云う者は、予一人なり。親兄弟ありと雖も、皆別物なり」
世俗の人間関係が希薄になりつつある今、江漢が言ったように親兄弟ともいえども、結局自分とは別のもの、自分はただ一人という意識が人々に芽生えている気がします。