今週も目は開かずじまい | ぎっちょ31  

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蒼き時代より共に生きる

今日は、お袋の面会の予約を入れていた日

さて、何に乗って行こう

単車で施設まで行くのも気が進まないし、帰り道に買い出しもしたいので単車じゃね

 

メンドっちいけど、クルマの入れ替えするか・・・

Zもしばらく動かしてないので、たまには動かさないとね

動く物は定期的に動かさないと調子悪くなります

人と一緒ですね

人間だって、運動しなくなった体でたまに動かすとロクに動かないし、普段動かさないから関節や筋肉を傷めたりする

老いさらばえて今のお袋のようになると更に顕著で、先週までは車椅子から立てたのに1週間後には立てなくなる

 

全部をとりあえず出さないとZが出て来れません

 

そして、お袋が世話になってる施設へ

 

今週も「あーーーっ、あーーーっ、あーーーっ」と奇声ばかり上げるだけで

目を閉じたまま・・・開けることはなかった

 

何度も言うが、なんのための命だ!?といつも思う

なんのため1年2カ月前に救急車で運ばれて拾った命だ!?と思う

何度もブログに書いたが、1年2カ月前に自宅で調子が悪くなり救急車で運ばれるまでは

なんとなく生きてる意味もある生活に思えた

庭に実ったミカンを「からいカゴば背負わせてくれんね」と言ってたくらいだからね

もう多少の痴呆は入っていたし、ウンコも小便も漏らして家の中が臭かったが

それでも実家でかろうじて生活していました

痴呆も入りだしたので、医者から飲めと言われてる薬も飲もうという意識も無くなるし、たまにオレも帰った時に「薬飲んだね?」と訊ねても飲んでもいないのに「飲んだ」と言っていた

そうやって、次第に衰えていくのが自然の姿だとオレは思う、自宅介護でヘルパーさんが来た時くらいは薬を飲ませるくらいならまだイイとして、100%介護のナスがママ、キュウリがパパも状態になってまで介護をしていただいてる職員さんの完全管理の下で飲み忘れることもなく薬も飲めば、次第に衰えて死んでいく体も、薬で持ちこたえる

いつも思う、まだ自宅介護程度の多少自立もあるような生活をしてるくらいなら「薬で延命(死なないように)」もまだアリだろうが

今のお袋に完全管理下の下で、薬を飲ませて「命を長らえる」意味・・・っていうかさ

延命処置の考え方が、医者にも家族にも常に問われるが

「飲み薬」で延命してるのと「体中にチューブと機械をつながれ生かされている体」とどれほどの差があるのだろう

いや、明日の命を拾ったから「拾った甲斐があった」という生活をしてるなら「薬」の意味もあるだろう

「薬」を飲むから(管理下で飲ませるから)、心臓が止まることもなく、明日の命も拾って毎日苦しそうにゼーゼーいうだけ、車椅子で日々認知症も進行していき何もかも解らなくなるだけ

この「明日を拾う意味」というがオレにはどうにも理解できないし、死ねないのもキツイな・・・といつも思う

 

もうこのブログで何度かUPしましたが

若い頃は「雰囲気が似てる」ってよく言われた

「振り返れば奴がいる」の司馬のセリフ

司馬なりの優しさとも言えると当時から思っていた

 

車椅子を押して来てくれた職員さんに「今日も、あーあーが多いですね」と言うと

「今日は朝から多いですね」とのこと

何度もお袋に声を掛けたが目を開けないで、ただ「あーーーっ、あーーーっ」叫ぶばかり

「目も開けないし、面会中はマスクして息苦しそうなので、今日はもう帰ります。また「かすまき」だけは持って来たので、またコレ食べさせてください。食べれてますか?」と訊ねると

「ハイ。でも最近は食もなかなかできなくて。食事の時は何でも小さく切ってから少しずつ食べてます」「あ~、そうなりますよね」(消えていく終末期にはお決まりのコースです)

もう、たぶん、このままオレを認識せずにどんどん機能が消失していって最後にはこの世から消えるのです

いつも思います「いっそ、楽になったほうが・・・」

お袋だって、ほかの人だってみんな一緒だと思いますが、お袋もまだ意思がはっきりあった頃には「ボケてまで生きらんでよか!」と言っていました

親父も言ってたし、誰しも「ピンピンコロリ」という言葉があるようにそういった最期がイイと言う

しかし、現実は今のお袋の毎日のように、こうなのです

脳ミソなんてほとんど機能してなくても、心臓が止まらなければ日々を消化試合のようにこなして行って死んでいかなければならないのです

そりゃキツイな・・・といつも思います

 

だから、前にも2~3回ブログに書きましたが

オレは程よいところで自分で終わらせるのが一番イイんじゃないか、と今でも思ってます