少し前のTVで「モクズガニ」をやってました
日本では好んで食べる地域は限られますが、志那では高級食材「上海ガニ」の仲間です(そもそも「チュウゴクモクズガニ」が本名らしいからね)
まあ、モクズガニを「食材」としか見えてない方にとっては屁でもないことを書きますが
「モクズガニ」を見ると今でも、ちょっとしたトラウマに近い「ちょっとした罪悪感」に駆られます
これも昔、ブログに書いた覚えがありますが
もう10,000記事以上書き続けているんですから、何度か出て来るハナシもありますな
オレが子供の頃、随分小さかったと思う
多分、幼稚園児くらいじゃなかったかと思うが
家の裏は、かつては入り江(ワンド)の海だった所を埋め立てた「埋立地」
その埋立地の真ん中にはそのワンドに流れ込んでた「川」が1本埋立地の真ん中を通って海まで繋がっていました
この川は、かつては全面海(河口域)だったのを川幅1本に狭めたので、オレの幼少期にはいろんな「しわ寄せ」とも言うべき生物の異常が見られました
大量に押し寄せるボラ
ある年には川一杯にウナギが(近所じゅうの人たちがウナギ釣りに集まって、やればやるだけ釣れた)
そして、ある時に巨大なモクズガニを見つけた
それはそれは立派なモクズガニだった
ネットで画像を探したが、その中で巨大と書かれたものがコチラ
子供の記憶なので、サイズ感は大袈裟になってるかもしれないが(子供の頃に「広かった」と思った道だって数十年ぶりに通るとこんなに狭かったっけ、ってよくあること)
しかし、時代は昭和だ!どんなバケモンサイズが人知れず生き残っていたっておかしくない時代
オレの記憶じゃもっとデカかった
なんせ、バケツからすぐに出て来るほどデカかった
アベレージサイズも上海ガニと同程度
一般的にはこれくらいのサイズ
でも、その川で見つけたモクズガニの大きさに
家に戻って親父に伝えたんだと思う
親父も居たから、多分日曜日だったんだと思う
そしたら、家に置いてあった竹竿とバケツを持参して親父が捕まえてやると一緒に行ったんだろうね
(当時はカーボン竿すら無かった時代、あってもグラス竿、でも島で子供が釣りをして遊ぶ程度なら山に竿に良さそうな竹を選んで切って切る・・・これが釣竿でしたし、港でアジ釣りなどをする程度は大人も竹竿でやってたし、サビキなども無かった)
エサは何を付けたか覚えてない、まあなんだって目の前にチラチラさせたら挟むだろうから挟んだら上げる・・・だったのだと思う
見事に挟ませ、釣り上げようとしたら「バキッ!」竹竿が折れた
その折れた竿の先をパッともう片方の手で取った親父が、子供心に「スゲー」と思った記憶はまだ忘れてない(そんなもんなんだろうな)
実際は「竹」なので折れた先っちょは分割されて落ちるんじゃなく繊維が残って繋がってることがほとんどだろうから、先を握り直すのは容易いだろう、しかし、子供の記憶では大道芸人のようにバキッと折れた先っちょをパッと取ってやり取りしたような記憶しかない
そうやってなんとか釣り上げた巨大モクズガニ
バケツに入れたが、当時はこんな金バケツ
ガシャガシャと、けたたましい音ですぐに出てこようとしていた巨大ガニに少々恐怖すら感じた
当時なんてみんなブリキの時代だよね(プラスチックなんてまだまだ少なかった)
ジョウロだってブリキです
当時の借家、陽当たりも大して良くないトコに何を植えたのか知らんが・・・
そんで、その巨大モクズガニを家に持ち帰りしばらく見たあとで
親父が「持っとったって、しょ~がないけん、放して来い」というようなことを言ったと思う
イマドキでも「釣った魚は持ち帰るのが当然(獲物だ・食材だというスタンスの人)」という人達となんら変わらない、といったって5つか6つくらいな幼児だ
「手放す」ことが、どうにも納得できない
しかし、親父からは「放して来い」と言われてるので川まで放しにやって来た
でも、子供ながらにも「スゲー巨大な珍しいカニ」という意識がある
そこいらに居る昔ながらの釣人&オシャレなアングラーと一緒で「手放すのは惜しい」んですな
親父の「放して来い」と「手放すのは惜しい」の間に置かれた5つ6つの幼児は
川に巨大モクズガニを放しました
そして、その「惜しい」という気持ちを消すように、上から大きな石を何度も落としました
カニはハサミを振り上げて抵抗していましたし、幼児が投げる石なんか、それほど正確に当たりません
しばらくはカニも逃げていましたが、そのうちグシャッ・・・またグシャ・・・と石の下敷きになって潰れました
親父から言われた通りに一応は放した
しかし、どっかに行ってしまうカニには許せない、だから目の前で生きの根を止めた
幼児はよく残酷なことをします
でも、そんな残酷なことをしながらも、大人になっていくんだと思います
なかには、そんな経験も役に立たず歪んだ大人になる者も居ますがね
モクズガニを見ると、今でもそのことを思い出します
だから「エサの丸正」の「龍さん」のトコに流れ込んで片隅で竿を組んでいた頃にも
よく龍さんが今からのような秋シーズンにヤドカリだけの商売では品不足なので「ツガニ(モクズガニ)」も仕入れて石鯛釣りのエサとして売ってました
オレにも「ツガニがあるけん石鯛行ってくりゃよか」などと言われるんだが
ど~にも、苦手でね・・・
バッカンの中で、ハサミを振り上げ捕まらないように威嚇したり(威嚇したってムダなのに)逃げよう逃げようとカサカサ走り回るのをムリクリ捕まえて
生きてるまんま手足を切り落として・・・エサにする
いや、せめて職業漁師が「食材」として漁獲されたモクズガニが茹でられて食われるのは致し方ないと思えても
オノレの「遊び」「趣味」のため、いつも言う「オレが魚釣りにでも行こうかな」なんて思わなけりゃ「まだ生きていた命」かもしれん・・・と思うし(いや、オレが行かなくたって別の釣人がエサとして買っていくので死ぬ運命に変わりはないんですがね)
百歩譲って「確実に石鯛が釣れる」と思えば、死んで行くカニも「有効活用」されたと思えるが
釣れない中の単なる一連の「打ち返し」の為に、逃げ回るバッカンの中から捕まえられ、生きながらに手足をチョン切られ、生きながらに釣針を埋め込まれ海に放られる
「オマエ、ムダ死にやな」とオレは感じてしまうのです
いやね、それはなにも、想い出のある「モクズガニ」に限ったことじゃありません
ほかのカニ、例えば「トッポガニ」もエサとして使うのは苦手です
「良く釣れるよ。使わんね」と言われたとしたって・・・いや、そうまでして釣らんでもイイ・・・と思ってしまう
大量に捕まえてきたり、金で買ったりして手に入れ
当然ながら、有無を言わせず捕まえられ、手足をチョン切られ
釣り針を突き刺され
石鯛用のエサとされる
いや・・・ホント、エサとして使うのが苦手なのです
同じ理由で「ヤドカリ」もできれば使いたくない
「よかエサやっか!」とか「この時期はヤドばい!」と言われたって
「ウニ」や「サザエ」で釣れなきゃ、別にそれでイイ・・・と思ってしまう
いや「ウニ」や「サザエ」だって生きてるよ、生き物だよ
でも、まだ無機質というか「生命体としての生きるための抵抗」とも言うかさ、そんなのが感じ取りにくいというかさ
ウニだってケンをワサワサ動かすし、管足(小さな吸盤)でくっついてるし
サザエだって引っ込んでフタ締めてしまえば石ころと大差なくなるが吸盤でくっついている時はそこそこの力でくっついている
十分に「生命感」は感じられます
サザエだって割ると、ギュッとむき出しになっても最後の収縮をします
アレも本当は、最後の動きに見えてしまうのです
しかし、ヤドは
殻を持つと、スポンと中に逃げ込みます
「あ~、ムダな抵抗なのにな・・・」と思います
海の中では大概それで回避できることが多いですが、人間様はハンマーも持参しています
パンパン、殻を割られて丸裸になってもまだ逃げようとする(うまく割ると生きたまま割れる)のを捕まえ、ハサミを振りかざそうが、人間様の金属製のハサミで手足でチョキンチョキンと切られ死んで行く
「ムダな抵抗」「実らない努力」ってほど、心を打つ・・・
それも「健気」に生きているモノがやるその姿ほど・・・
人間様の世界では、時としてナメた態度とって自分からタネを撒いて来る者が居ますよね
こんな時
オレのほうが強くて、返り討ちでボコられるようなヤツにはオレは1ミリも情は湧きません
なんだったらヤツが後悔して掌返して必死こいて土下座で謝ってる顔を蹴り上げるくらいの心は持っています
ヤツの動きが一切無くなるまでボコっても、なんにも心は痛みません
オノレが撒いたタネやろ、ナメ腐った態度取りやがって・・・でしかない
でも、コイツらは、オノレじゃ何もしてない
勝手に捕まえられてきて、必死で抵抗するが実るワケもなく、ジワジワと殺されていく
それも「対価」があっての「死」(人間様に使われたけど、大きな石鯛になって帰ってきた)なら、そりゃ殺されたって仕方ない・・・とまだ思える気がするが
ただの「打ち返しで死ぬ」のはムダ死にすぎる・・・と思ってしまうのです
だから、オレは
たとえば「サザエ」を3kg買ったとしても
潮の時合が「今じゃない」と思ってるような時に、ダラダラと仕掛けの打ち返しはしません
今、パンパン割って殺したサザエはムダ死にな気がするので・・・
そして3kgのサザエを買ったハズなのに1kgしか使わずに残った2kgは「持って帰って壺焼き」ではなく、海に放して「良かった2kgは生き残るチャンスがあったな」と思って帰路につく方が、心がマシなのです。一体何をしに来たのやら!?
「チャンスすら無い」ってのは「むごい」ことな気がするのです
じゃあ、じゃあエサも最小限しか使わずにどうやって打ち返すか(こっから先は「釣りの要領」の上手い釣人orヘタクソな釣人の動きの差だと思いますが)
潮が悪かろうが、可能性は薄かろうが、片っ端からサザエを割って打ち返す(まあコレも釣りということだけ考えたらナシな動きではないんですが、無頓着というか無愛情というか、なんか人となりの粗末さを感じないこともありません)、だったら潮がイマイチな時は打ち返しもしないのか・・・といったらサザエの時は定期的に打ち返しができます、それも新しくパンパン割ってサザエのムダ死にをしなくても
どうやるのかは、今回の記事では書きません
石鯛は「落ちて来るエサ」に興味を示しているハズ(オレは石鯛ではないので言い切りませんよ)
だからたとえアタリが無くても定期的に「打ち返し」という操作は要るのです
「アタらんな~」と遠投で放り込んだ竿先はもう10分以上も微動だにしない、15分、20分・・・「いや、エサは付いとるハズ」これはヘタクソな釣師のパターン
上手な釣師は、こんな状況下でも打ち返すし、じゃあロクに反応の無いのに片っ端からサザエもパンパン次から次に割るのか・・・と言ったらそれもやらずに打ち返しだけはやる
気の利いた釣師は何を言ってるか感づいているハズです
石鯛釣りで辛いのは、多くの小さな命を「おのが手で終わらせている」のがどうにも気持ちが引っ掛かるのです
健気に生きて、一所懸命抵抗しながら死んで行く小さな命・・・がどうにもね
だったら釣りするなよ・・・なハナシなんですがね
そう、だから、オレが昔のように時間さえあれば釣りに行くようなスタイルじゃなくなってきたのは
オレが動いたって・・・オレごときの人間の思いつきで、死ぬ小さな命は限りなく少ないほうがイイ・・・そう思ってなかなか釣りにも行かなくなったのもあります
島で自宅療養していた頃は年間釣行回数450回以上(365回を越したあたりから1日1回以上は行ったんだと回数をメモするのはやめましたが450回は行ってるハズ)
オレごときが、いらんチョロチョロをしたがばっかりに、死ななきゃならん小さく健気な命
幼い頃から
小さな命を育てたり、殺したりしながら
今の心に育ったのだと思ってます