第25週末から第26週の151話、演奏会苦渋の中止の後から。

『赤ちゃんの為だよね』『そうだ、俺たちの、子供の為だ』

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・・・『この子の為に、頑張らんとね』

桜子さん、達彦さんとの公園の並木道。そして、木漏れ日の中、そこにあるものは、ただ現実と光。(注1:後述)

あ、そして、おかゆとか、お弁当ドロボウくん達とか、勇太郎もね!(注2:同)

しかし、それもつかの間。まさに、ここぞ、という所で達彦『子供の事だけど、考え直せんか』からのあの場面で、”編みかけのおくるみを抱えたまま咽び泣く桜さん”という、およそ人が思い付く限りの残酷な構図で151話を終える。

しかも、明ける152話冒頭からの、いきなりあの目の座った寝顔の桜子、食事にも一切手を付けず。ここでわたしは本当に震え上がった。

ともあれその152話、達彦さん、笛子さん杏子さん磯おばさんと卓を囲む。これがまた各人いかにもその人が、という言葉。

その後、達彦さん、桜子さんの床へ一人『どうしても子供を産みたいか』『わかった。明日、先生と話し合おう』『産めるか産めないか、もういっぺん先生と話すんだ』

 

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『先生、ひとつお伺いしてもいいですか?』『私は治るんですか?』『子供をあきらめてじっとしとったら、私は治るんですか?』 

 

『それは、どっちとも言えんが』

 

だからさ、もう答えは決まっているくせに。あの先生が何言おうと。

 

『…だったら私は、子供を産みたいです』『私は死にません。』(注3、同)

それ以降はもう、終始一貫、桜子さんの場面では、どの場面をとっても隙がない程の笑顔と生気。そしてそれが物語の終わりに向け、だんだんと、細く、小さくなっていく。

ここからは、わたしが記さずとも、各々の記憶の中であの場面へ。

無論、わたしの中での心情として、その過程を見続けるのを避けたかったのですが、しかしその一方、なんというか、不思議な、それをなだめられるような。

ある詩から。

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"私は不死に満足している
私の血が時代から時代へ流れ込む
常に暖かく確かな一隅のため
自ら生命を捧げよう
もし、生命の飛び行くその針の糸が
もはや私をこの世の光に導かぬなら"


・・・

そしてあの場面へ立ち返る(第148回:マサさんが桜子の手を取る-その手が達彦へ)(第23章冒頭のマサさんと桜子さん)

桜子、観る者全てを置き去りにする。

・・・

言うまでもなく、この物語は、音楽というものが常に鍵となるのも疑いはない。しかし、決して”音楽家を目指す一人の女性の苦難と成功の物語”では無い、と私は思います。

では一体何なのか。

”あるものはただ現実と光”    それだけ。

そして言うならば、それらが連なる、受け継がれるいのちの物語。

すみません。もう、こんな辺境の地のどマイナーな不肖私のブログまでたどり着いてこられたお方々にはもう百も承知でいらしゃるでしょうが。


もうですね。もっと楽になって、音楽がとか、成功が、とかいうしがらみとか束縛から離れてみれば、そうすると、こんなにあっけらかんと、素直に人の心に入ってくる物語は、そうそう他には無いんじゃないのかな。


そして、それ故にでしょうか。桜子は、最初は桜子の宿敵だった人たち、西野先生なり、かねさんなり、最初こわもてだったおタミさんも、一度は敵にまわした山長のすべての人たちも、(そして、わたし個人的に思うには、タネさんさえ)一転して、みんな味方につけていく、そして、その人達と繋りあう、というのも、必然だったのじゃないでしょうか。そして、有森家の一家や磯おばさんにとどまらず、皆、一人一人が、桜子さんとの繋がりの中の、この時代のごく普通の市井の人々が、いかに生きてきたのか、そしてそれ自体が輝いている、ただそれだけが、しかし、だからこそいいんじゃなあないですか。

 

だから、タネさんの旦那も小鈴さんの旦那も、もし途中でフェードアウトしなかったら、だんだんそうなっていったのかも。

 

そう思ってしまえば、なんていきいきと輝いたお話なんだと。まあ、その代わり、精神も破壊されるけど。


そう、なにか最近思い直したのですが、これ実は、脚本のお方は、物語の登場人物に対してよりも、むしろその先の視聴者をターゲットに精神破壊にかかっていたんじゃあないか、だとすれば、これは本当にタチが悪い(笑)。

ともあれ、そのどん底の底にさえも、その先に生への輝きを見せる。

例えば、あの、20週終盤の桜さん『みんな無責任だよ!!』から、冬吾につれられて行く、川での二人の対峙の場面。あれさえも、あのどん底から生気を放ち始める、例えれば、”いま地獄の底から浮上する”みたいな。

最終週でも、実は冒頭の場面が、どん底の底だったという。実はわたしは、あそこで心底おじけづいた。(はい白状します、あの場であの様に”つぶやき”ました。)

しかし、そこから一転、だんだん、最大の生気を放ち始め、やがてそれは引き継がれる。


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■注記■ ー もう脱線だらけになったのでここにまとめます。

注1『公園の並木道にて』: ひょっとして、これ岡崎城公園?間違ってたらごめん。背景が城のお堀に見えたので。


注2『お弁当ドロボウ君達』: お弁当トロボウ君といえば、第22週以降の国民学校編の桜さんって、ものすごく輝いていたよね。22~24週では、冬吾さんや松井兵長に気を取られ気味だったけど、改めて気が付いた。

注3『私は死にません』; これ、たしか別のドラマでトラックだったか何かにはねられそうになるやつ??ううん知らんけど(ごめん)。ともあれ、わたしはあのドラマを見て無いので、この桜子さんの言葉には素直に入れました。というか、いかにも桜さんらしい、もの凄い言葉だよね。

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今思い返せば、あの味噌樽から決闘からトリモチから納屋の中の発表会、無敵の16歳を経てひたすら輝きつつ中盤、後半に至るまで、ある意味、ひたすらストレートに実直に、そして、そこにまた帰っていく。

だから、この物語の人たちも、みんな言っているじゃないですか。
 

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『お母さんそっくりな顔で、お母さんそっくりな声で、お母さんそっくりな性格の人が、この世のどこかにおるかもしれん。そしたら、そういう人が来てくれたら、さみしくないだろ?』

『そういう人、おる?そんな人おる?』

『おらんさ』

『だから、お父さんはこれからもずーっと一人だ』

『でも、お母さんにそっくりな人なら、ここにおるしな』

(有森源一郎/ 有森桜子 第4回)
 

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『お母さんに似てきた…』

(有森源一郎 第11回)

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『達彦はね、自由で明るいあんたが好きなんだ。いつでも元気に精一杯羽を伸ばして、羽ばたこうとしてるあんたが、あの子は大好きだった。』

(松井かね 第117回)

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『ねえ冬吾さん。それでも亨ちゃんわらっとるよ。

亨ちゃんは、今生きとる事だけを感じてわらっとる。未来の事や、世の中の事、目がよく見えん事を、悲しんだりしとらんよね。冬吾さんもそうなれないかな。

冬吾さんが描いた、亨ちゃんの絵あるでしょう。わたしあれが大好きなんだ。

あの絵には、いのちが感じられるから。

あの空襲で、戦争で、沢山の人が死んだけど、亨ちゃんは生きとる。わたしも、笛姉ちゃんも、加寿ちゃんも生きとる。

今は生きとるわたしを見て!生きとる亨ちゃんを見て!

すぐに元気になれんでもしょうがないよ。ほいでも、そのうちきっと力が湧いてくる。

ほいだって、冬吾さんの目には、人やものの中に、いのちを見る力、があるんだもん。あの絵にはそれがあるんだもん。』

(有森桜子 第126回)

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いのちはそれ単体では成立しない。過去から未来へと受け継がれるもののうちの一つであり、この物語の中でいえば、桜子さんといういのちも、過去から未来へ繋がるものの、その一部。そしてそれは、輝一(”いちばん輝く”)へと受け継がれる。なんとこんなに、ストレートで素直な話なんだろう。今は寂しいけど。

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”輝一ちゃん、元気ですか?ひもじい思いはしてませんか?
お父さん、おばさん、おじさん、あなたのまわりの人たちは元気ですか?
お母さんは、あなたを抱いて育てることは出来ません。”

”そして、あなたが物心つくころには、きっとこの世界からいなくなっていることでしょう。
お母さんの人生は、人から見れば、あっけなくて、つまらない、寂しいものに映るかもしれません。あんたもそう思うかもしれんね。”

”ほいでもね、違うんだよ。お母さんは十分に生きた。十分に輝いた。
お母さんの人生には、素敵なことが山のようにあった。
その中でも一番素敵なことは、あなたのお父さんに出会えたこと。
そして、あなたに出会えたことです。”

”『意味のない人生なんてない、輝きのない人生なんてない』
寂しいときはピアノを弾いてごらん。
輝一ちゃん、お母さんはそこにおる。
ほら、あなたのそばにおるよ…”

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わたしが、この物語を知ったのは、ある偶然中の偶然の産物なのですが、最初のうちは、ただ脇で流しているだったのに、終わってみれば、面倒クサがりで常に楽な方に逃げる不肖私が、なぜかこんな面倒クサいものを書いているという始末。

ともあれわたしは、このドラマが少なからず産んだとされる、例えば、第12週で『えええ?せっかく受かった音楽学校の辞退するのなんで?』から道を踏み外しちゃった迷える子羊にならず’(いや、私がそうなりかけたから具体的に書いてますが)、そしてわたしは、ここまで来れた。

 

その理由の一つは、この物語に、偶然にも妙に符牒する、もう30年近くも前にわたしが出会った、ある詩だったように思います。


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(一)

私は予感を信じない 前兆にも
惑わない 中傷も毒も
恐れはしない この世に死は存在しない
すべての人は不死だ すべてのものは不滅だ 十七歳でも
七十歳でも死を恐れる必要はない
あるものはただ現実と光
闇も死もこの世には存在しない
我々はすでに海辺にいる
そして不死が群れてやってくるとき
網を曳く者たちの中に私はいる


(二)


家に住むがいい-家は崩壊しない
私は好きな時代を呼び出そう
その時代に入って家を建てよう
それゆえ、私はあなた方の子供や
あなた方の妻とひとつのテーブルにつく
曾祖父や孫にもテーブルはひとつ
未来は今、実現される
私が片手を少しあげると
五つの光はすべてあなたの処にとどまる
私はこれまでの日々を
自分の鎖骨で支えてきた
測量の鎖で時を測った
ウラルを抜けるように時を抜けた


(三)

私は体に合わせて時代を選んだ
南部には行って埃を舞い上げた
雑草はむせ返り、バッタは戯れ
ひげで蹄鉄に触れて予言した
そして、修道僧のように死で私を脅した
私は自分の運命を鞍に結びつけた
今、私は来るべき時代にいる
少年のように鎧の上で腰を浮かせて

私は不死に満足している
私の血が時代から時代へ流れ込む
常に暖かく確かな一隅のため
自ら生命を捧げよう
もし、生命の飛び行くその針の糸が
もはや私をこの世の光に導かぬなら


詩:アルセーニー タルコフスキー”いのち、いのち” 

(映画監督アンドレイ タルコフスキーの父親)
(出典※「タルコフスキー Testaments by Andrey Tarkovsky / WAVE26」
※ただし第三章最後の二行に重要な誤訳がある部分を、筆者にて訂正。ロシア語原文および英語訳と他の日本語約訳版の複数ソースにて検証済。

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桜子が受け継ぎ、そして今度は彼女が”片手をあげて”輝一に受け継いだ今、彼女も、”好きな時代を呼び出そう” ”その時代に入って家を建てよう” ”私はあなた方の子供やあなた方の妻とひとつのテーブルにつく””曽祖父や孫にもテーブルは一つ”そして、”未来は今、実現される。”

さて、わたしも、この最終話までまでたどり着いた後は、寂しいのですが、わたしも、好きな時代を呼び出そう。トリモチや決闘(笑)や、納屋の中での発表会とか、なぜか親子丼と踊る桜さんとか、あの夏の一夜の岡崎城、はたまた好きな時代の有森家へ。そして、”ひとつのテーブルにつく”

そんな風に、実に生気に満ち溢れる、ある一つの物語。

それが、いいんじゃないのでしょうか。

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ここまでいらして下さって本当にありがとうございます。お礼といってはなんですが、この物語にわたしをつれてきた、この詩を、わりと奥底の方から召喚してきました。

この物語と、この詩。両者は、世界は違うかもしれませんが、端々で交差してきます。これがまた何かのきっかけや新たな発想の種なんかになってくれたら、うれしいのですが。それではいったんの区切りと致します。ありがとうございました。