2010年4月7日 AM3:22分 | のざっちの独り言

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201047 AM3:22

 

くも膜下出血のため逝去

 

木村 拓也     享年37

 

 

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いま、こうして書いていてもよく分からん!

『なんで??』ばかりが頭の中でグルグルしてます。

 

当時の新聞記事などを読むと病気が発覚する少し前から野球の練習が終わって帰ってくると「疲れた」「本当にしんどい」等の発言が出てきて、亡くなる直前には激しい頭痛を訴えていたそうです。

 

木村拓也選手の奥様、由美子夫人はこれらの前兆を自分が気づいていれば助かったのではないだろうか?と後悔を口にしていた。という記事もありましたね。

 

木村拓也という野球選手を見ていると、本当に泥臭くがむしゃらにボールに向かっていくし、悔しさを前面に出す姿も良かったですね。いまのジャイアンツに足らない部分でもある姿でしたよ

 

親しみやすい雰囲気で、でも野球になると雰囲気が変わってがむしゃら喰らいつく姿

 

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自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが 『ユーティリティープレーヤー』『何でも屋』それでもこの世界で食っていける。『レギュラーになる』『エースになる』だけではない。「俺が1番うまい」と思って入団して1番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。

 

2010NPB新人研修での一言です。

 

いまの自分にも響く深い深い言葉です。

 

いまご存命なら木村拓也コーチは今年で45歳。まだまだ熱血コーチとして選手達にゲキを飛ばしていたんじゃないかなぁって思います。チームの危機管理を1人で引き受けられる選手だからこそ、沢山の引き出しから後輩達に伝えて欲しかった。もっともっと教えて欲しかった。

 

アテネオリンピックの時、スター選手ばかりの代表の中で、ときにはコーチャーボックスに立ち、ときにはブルペン捕手を務める献身的な姿……『チームの為に』という姿はベテラン、中堅、若手、どんな選手にも通ずるものがあったと思います。

 

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無論、俺が俺がという気持ちでレギュラーを狙って日々猛練習をするというのは当たり前だと思うのですが、そこで1度壁にぶちあたると『戦力外通告』や『引退』というものがついてくるようになります。その時にその波に飲み込まれていなくなるのか、自分とチームを見つめ直してチームの痒いところに手が届く選手になるように練習するのか。

 

タクさんみたいにチームの痒いところに手が届く選手、超ユーティリティープレーヤーっていう選手が1人でもベンチにいると首脳陣は非常に楽なんですよ。積極的に勝負をかけることが出来るようになり、万一の時はコイツがどこでも守れるから大丈夫だ!とカードを切れるんですよね。そういう選手がいるかいないかでチームの戦い方も変わりますから、大きなキーマンなんですよ。

 

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200994日のヤクルト戦。

延長11回、ヤクルト鎌田祐哉のボールが加藤健の頭部に当たり、負傷退場。この時点で先発出場していた鶴岡はベンチに下がっていて、正捕手の阿部慎之助は一塁手として出場していたが、この時点で鶴岡同様交代していた。延長戦の規定は12回まで。巨人は11回にサヨナラ勝ちを収めなければ勝ち負け以前に試合そのものが続けられなくなる危機に陥った。

 

その中でセカンドを守っていた木村拓也に任せた。90年、日本ハムにドラフト外で入団した時には捕手だった木村に白羽の矢を立てたが、最後に捕手として公式戦に出場したのは広島時代の99年7月6日横浜12回戦。この時も“緊急出動”だった。

 

元は捕手といっても、常にプロの投手が投げるボールを捕球していなければ、そう簡単に捕れるものではない。しかし、全く捕手経験のないプレーヤーよりは任せられる。

 

「こういう時のためにオレはいるんだ。オレしかやれるヤツがいないんだからやるしかない」

 

自他とも認めるユーティリティープレーヤーは覚悟を決めた。鶴岡のミットを借り、用松淳ブルペン捕手のレガースとマスクを付けて定位置に座った。

 

まずは豊田清とバッテリーを組んだ。初球はいきなりフォーク。木村が出したサインだった。「実はベンチから西山さんからサインが出ることになっていたんですが、見る余裕なくて自分で出しちゃいました」と。二塁を守っている時から「自分のチームのピッチャーがどんな球をどういう時に投げているか頭に入っていた。その知識を総動員した」

 

豊田には5球のうち3球を決め球のフォークを投げさせ田中浩康を中飛に仕留め、続く青木宣親と対した左の藤田宗一には裏をかいてシュートから入り、2球目にカーブを要求。最後はスライダーで三振を奪った。

 

1安打1四球を許したが、この回3人目の野間口貴彦がユウイチを151キロのストレートで空振り三振に切って取り、急造捕手は無事大役を果たし終えた。

 

チェンジになった瞬間、真っ先に出迎えた原監督はガッチリ握手。肩を何度も叩き感激の面持ちで労をねぎらった。

 

「本当に困った時の拓也頼み。冗談も言えない。よく救ってくれた」と言った。

 

ピンチのときこそ最大限の力を発揮する木村拓也は何者も代わりのきかない最高の“何でも屋”だった

 

これが本当に象徴としてる試合じゃないですかね。キャッチャーがいない。試合の続行すら危ぶまれる中ですぐに『俺しかいない』と覚悟を決めてマスクを被る。そして無失点で帰って来る。簡単に出来ることじゃないですよ。本当に本当に言葉には出来ないほどのビッグプレーですよ。そういう選手がいるからこそ、09年のジャイアンツは強かったんじゃないかなと思います。

 

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まだ書き足りないくらいなんですが、長くなっちゃったんで、この辺で〆ようと思いますが、本当に木村拓也という野球人はかけがえのない人だった。再びこういう選手が現れてくれると信じて……

 

タクさん、ずーっとずーっと忘れません。

いや、忘れたくとも忘れられないです。

あなたのプレーを見て、自分も大学まで硬式野球を続けることができました。

 

本当にありがとうございました!

 
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狙い澄ました一撃が

勝負を決める

Vへの道 拓け木村拓也