これは友だちの友だち、の話である。友だちの友だち。
以下で登場する「彼」というのは、俺にとって友だちの友だちということである。
優しい嘘なら、いらない。
むかしの流行歌に、そんな歌詞があった。
「嘘には良い嘘と悪い嘘がある」という人もいる。
彼は思う。そうだろうか。
嘘には良いも悪いも優しいも優しくないもない。
悲しいだけなんじゃないか、と。
彼の家庭環境を一言で説明するのはすこし難しい。
事実として言えるのは、彼は実家を離れて家庭を築いていること、実家では両親と姉が3人で暮らしていること、姉は人付き合いがすこし苦手ということ、彼は姉と5年くらい言葉を交わしていない、ということだ。
彼の息子は4歳にもなるのに、彼の両親、つまり息子にとっての祖父母とは数回しか会っていない。
両親は孫に会いたい気持ちは強く持っているし、彼が会わせまいといじわるをしているわけでもない。それでも数回しか会っていない。これには彼の姉の存在が大きく関係してくる。
彼が妻子を連れて実家に帰ろうとしたことは何度もある。しかし、そのたびに母から「ほんとうに申し訳ない」とつらそうに来訪を断られてきた。
彼の姉は「弟が自分よりも可愛がられて育ってきた」と思っている。
姉にとっては、そんな弟が幸せいっぱいの姿で帰ってくるのが許せない。めったに帰ってこない弟のために両親がうれしそうに世話を焼く姿が許せない。やっぱり私はいらない子なんだ。姉はこういう思考回路になってしまうのだという。そして気持ちが抑えきれなくなると、家中の壁にハサミで穴を空けたり、食器を壊してまわったりするのだという。
彼にとって実家はもはや「帰るべき場所」ではなくなってしまった。むしろ「帰らざるべき場所」ですらあるのかもしれない。
だったら、両親に来てもらえばいいじゃないか。
そう思った彼は息子の幼稚園の運動会に両親を誘ってみた。
両親は少し迷いを見せつつも「本当に行ってもいいの?」と喜びを隠しきれない様子だったそうだ。
しかし彼は結局のところ、離れて暮らす両親と姉の関係性をわかっていなかったのだ。残念ながら。
運動会は朝からだったので、両親は新幹線に乗って前日夜に彼の暮らす東京にやってきた。夜は彼の仕事が忙しくて両親と会うことができず、翌朝に幼稚園で待ち合わせすることにした。
その夜のことだった。
日付が変わるか変わらないかの時間。あしたは朝から運動会の場所取りに行かないといけないし、そろそろ寝るかな、と彼が思っていたころ。スマホに電話がかかってきた。発信元は実家の固定電話だった。
両親はいま東京のホテルに泊まっている。とすると、この番号から発信できるのは…。
「もしもし、久しぶり」
やはり電話をかけてきたのは姉だった。会話をするのは5年ぶりくらいか。
「久しぶりだね。こんな時間になしたの?」と彼。
「いま父さんと母さん、家にいないの」と姉。
「ああ、うん」と彼。
「父さんと母さんが友だちの新築祝いに呼ばれて出かけたんだけど、父さんが飲み過ぎて帰れなくなったんだって」と姉。
彼はあまり勘の鋭いほうではない。むしろ鈍いほうだとよく言われるくらいだ。
それでも、彼はこの姉の言葉を聞いてハッと気が付いた。両親は姉に嘘をついている、と。「あした一緒に子どもの運動会見に行くよ。姉ちゃんも来ればいいのに」とか言わなくてよかったー、と。
さすがに両親とも家を空けることになるのだから、ちゃんと姉には孫の運動会に行くということを説明しているのだと彼は思い込んでいた。でも実際はそうじゃなかった。
両親が弟一家のために東京に行く→私は田舎の家に一人→両親は私より弟が大事→私はいらない子→許せない
両親は姉がこういう思考回路になることを懸念したのだと思う。
嘘つくならもっとバレない嘘つけよ!と彼はすぐに思った。
しかし姉が彼に電話をかけてきたのは、両親の説明を疑っていたからではなかった。
むしろ両親の説明を信じた上で「あの強かった父がお酒に飲まれてしまうなんてなんでなんだろう。やっぱり私のせいなのかな」ということだった。
彼は答えに窮した。
正直に言うべきか?いやいやそれは無理だ。かといって、姉を納得させる合理的な説明をできる自信はまったくない。というか嘘なんだから、それも中国のドラえもんくらいのかなり粗っぽい嘘なんだから。合理的な説明なんでできるわけがない。でも、かといって説明ができなければ、姉は自分を責めてしまうことになるんじゃないか。
彼は眠い頭を3秒くらいでフル回転させて、こんな風に答えたという。
「父さんももう60過ぎじゃん?お酒強いひとだとは思うけど、年とると自分で飲めると思ってる量と体が受け入れる量ってずれてくるらしいじゃん。父さんはそこを見誤ったんだと思うよ。だから姉ちゃんのせいじゃないよ。父さんも年とったねー」
姉は納得したようなしてないような態度だったそうだが、彼は通話口で30分間嘘をつき通した。その夜はひどく疲れを感じたが、眠りに落ちる前、あすは両親に伝えるべきだ、と強く思った。
運動会当日。
彼は両親と顔を合わせると、前夜の決意がしぼんでいくのがわかった。
両親は孫と久々に会えたことでもちろん笑顔は見せている。しかし、ふとしたときの表情に影が差していた。間違いなく姉への後ろめたさだと彼は思った。
決定的だったのは、両親が「昼ごはんを食べずに帰る」と言い出したことだった。
運動会は14時までの予定。事前に両親からは「16時発の新幹線で帰る」と聞いていた。体調が悪いとかならいざ知らず、孫の運動会で一緒に昼ご飯を食べずに帰る祖父母なんて地球上に存在しえないはずだ。
しかし、両親が姉にした説明は「友人の家で飲み過ぎて帰れなくなった」というもの。普通の人間ならさすがに一晩寝ればすっきりするだろうし、昼には家に帰るはず。
だが16時の新幹線に乗れば帰るのは20時くらいだ。飲み過ぎて友人宅で一晩厄介になったとしても、帰りが20時では遅すぎて不自然だ。だから嘘が粗すぎるんだよ、と彼は思った。
父親は後ろ髪引かれる感じだったが、母親にせきたてられるように、2人は本当に昼前に帰って行った。
彼は言えなかった。
会いに来てくれるのはうれしいけど、姉に嘘をついてまで来てほしくない、と。
嘘をつくのは姉に悪いし、2人もつらいし、その嘘を守るために嘘をつかなければならなくなった自分もつらい、と。
でも、彼は言えなかった。罪悪感を抱えてまで来てくれた両親に「あんたらは悪いことをしてる」とわざわざ指摘するようなことを彼は言えなかった。その指摘はたぶん120%正しい。でも正しすぎて、両親を傷つけてしまうような気がして、彼は言えなかった。
だから彼は思う。
嘘には良いも悪いも優しいも優しくないもない。
悲しいだけなんじゃないか、と。
彼はそんなことを思いながら、息子に最近こんな話をよく聞かせているという。
「海にヒトデっているじゃん。あれってなにかの形に似てない? そう! 星! でもそれって偶然じゃないんだよ。空のお星さまが海にどぼーんって落ちたのがヒトデなの。つまり、ヒトデってお星さまなんだよ」
関心したように「へ~!」とにっこり笑う息子を見ながら、彼は「それでも優しい嘘を探し続けよう」と思っているという。