あ、クマダさん・・・。
見覚えのある顔が目に入り、声をかけようと思ったその刹那。
ある違和感を覚えて、言葉を飲み込んだ。
この違和感はなんだろう。
彼女の顔をもう一度ちらりと確認する。
俺は人の顔と名前を覚えるのは、割と得意な方だと思う。
やはり間違いない。大学で同級生だった女性だ。
学生のころ、同級生の懇親会で酒を飲み過ぎた彼女はお店でオゲオゲして手洗いを詰まらせてしまい、学部ごと店から出禁を食らったような気がする。
当時すごく仲が良かったわけでもないが、明るい性格だった彼女とは会えば話はするくらいの間柄だったと思う。
会うのは卒業以来、15年ぶりくらいだ。
ここにいるということは、彼女もこの地で家庭を持ち、子どもをスイミングスクールに通わせているということだろう。元気そうでなによりだ。そして、この15年余りを、どう暮らしてきたのか、聞いてみたい気持ちが沸いてきた。
彼女は俺に気づいていない。
第一声はどうしようか。
「久しぶり。俺のことわかる?」
一見無難に思えるが、これで相手が自分を思い出してくれなければ、自意識過剰っぽくなって恥ずかしいことこの上ない。
「会ったことあるよね?」
なんだかナンパの声かけみたい。
「違ったらごめんなさいですけど、クマダさん、ですよね?」
あなたを知ってるということを謙虚に伝えられるし、万が一に人違いでもダメージが少ない。これだ。よし。
クマダさん・・・。
いや、ちがう。
彼女は「クマダさん」じゃない。
俺のなかの、18歳の俺が叫んでいた。
俺はハッとした。
そうだ、彼女はクマダさんではない。
記憶の扉が開く。
入学して間もないころ、誰がかわいいとか、誰には彼氏がいるとか、男友達同士で同級生の女性たちのことをあれこれ話していた。
俺は入学以来思っていたことをそのまま口にした。
「●●さんって、熊田曜子を3発くらい殴った顔してない?」
「失礼すぎるだろ」と咎める声があったような気もするが、このたとえは同級生の男連中に大ウケしてしまい、表立って本人をそう呼ぶ者こそいなかったものの、彼女にはクマダさんの呼称が定着したのだった。
そうだった。
「お前は自分で思ってる以上にデリカシーないから気をつけた方がいいよ」
倫理観の欠如について男友達から初めて面と向かって言われたのも学生時代だった。
あぶねえ。
うかつに声かけして「あなたのことは覚えてるけど、クマダさんってなに?」とか聞かれたら、地獄の再会になるところだった。
彼女をクマダさんと呼ぼうとした俺に、笑顔の再会を果たす資格はないように思えた。
吉野弘の「祝婚歌」という詩に、こんな一節がある。
「正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい」
帰りのバス。
チョコミントのセブンティーンアイスをぺろぺろなめながら「舌あおい?」と舌を見せてくる息子に、正しくても言っちゃいけないこと、相手を傷つけてしまう言葉というものが世の中には存在するんだ、人の気持ちのわかる大人になれよ、と心の中で声をかけた。