第17回本屋大賞受賞作の映画化である。

原作はまだ読んでいない。

 

 

 

 

 

(ネタバレあります。ご注意!)

 

 

最初から最後まで圧倒的。

 

ただ、「誘拐事件」、「傷物にされた可哀想な女の子」、「ロリコンで凶悪な誘拐犯」という図式やその隠された真実へ向かう物語、はあまり好みじゃない( ̄▽ ̄;)

 

しかしなんという映像、音楽、その提示の仕方。

 

さらに素晴らしいキャスト!

 

「かわいそうな子じゃない」という家内更紗(広瀬すずさんと幼少期の白鳥玉季さん)が切ない。

 

「僕はハズレですか?」と尋ねる佐伯文(松坂桃李さん)の瞳が哀しい。

そこにいる佇まいの全てを律している様に感服。
 

飢えた中瀬亮(横浜流星さん)の変わり様の凄まじさに釘漬け。あの二枚目がこうも無様に見えるものなのか。


 

さらに谷あゆみ(多部未華子さん)、骨董店の店主(柄本明さん)、文の母(内田也哉子さん)、更紗の同僚(趣里さん)と超贅沢な布陣。

 

 

でも、やはり私はブンガクがわからないのだと思う。

 

 

そうじゃないだろ。

そこじゃないだろ。

なんでそうなってしまうの?

もともと更紗が生虐待の被害者じゃないの?

誤解や偏見、無理解やバッシングはそのまま?

 

 

たとえ観客が分かっているとしても、スクリーンの中の彼らの世界が正されず、不幸で虐げられたままなのが耐えられない。

 

 

優れた作品(物語、映画、etc)に触れると、いつも思うのだ。

 

「モノタリナイ」

 

そこで何故言わない。

何故描かない。

こう言えば、こう書けば、と不満ばかり。

 

かなりの無理を承知で解ける寸前の緩い境界線の際を縫うようにして物語を進め、ぎりぎり赦される範囲でこちらの不満を押し留めようとする演出なんかも苦手。

 

そして、偶々そこをうまく表現してくれたり、こちらの意に染まう言葉やシーンを描くクリエイターを勝手に褒めそやして満足してきた。

 

 

でも実はクリエイティブな作品は、そこに様々な「余白」を埋め込んでいる。

 

そうとは書いていないし、描かれていないけど、受け手がそこで様々な感情や心持ちを想像できるように、そっと「余白」を置いてくれる。

 

 

そうやって、作り手と受け手とのコミュニケーションで作品は完成するものなのに、私は私がすっきりする物語になっていなければ満足しなかったのだ。

勝手に私の中にしか正解は無いと決めつけて、そこからズレた答えを慮りもしない、上から目線の、我儘な、貧しい受け手だった。

 

 

ずっと感じていたそのことを知らしめてくれる素晴らしい作品だったといえるかもしれない。

感謝m(__)m

 

 

原作も読もうと思う。