さて、ことはそれほど簡単ではない。
もちろん前回書いたことは嘘じゃない。
心からそう思っている。
しかし、今実際に血を流してる当事者からみれば、リアリテイのない理想論である。
「いつか必ず」と誓うにしても、今、考えなければいけないことはたくさんある。
娘が誘拐されたら?
彼らが隣に越してきたら?
額に銃を突きつけられて同じ事が言えるか?
自分の命を晒していない者の戯言だと言われれば、その通りである。
私自身、子どもの頃いじめられてて、あいつらかいなくなればと真剣に願った。
正直死んでくれたらと考えたこともある。
そんな聖人君子じゃない。
利己的な臆病者に過ぎない。
居心地のいい世界でだけ生きていたいと思う。
でも、それも都合のいい話だ。
だって向こう側の人間のほうが多数かもしれない。
ただ彼らとてこの世に生を受けた瞬間から憎しみや使命感で一杯だったわけではあるまい。
子どもから大人へと成長していく中で、取り巻く環境や現実の生活、身近な大人たちの考え方に影響をうけて、今に至るのだろう。
それは私たちが育ってきた世界とはかなり違うはずだ。
行動することでしか自分たちの、さらに愛する子どもたちの世代の未來は作れないという想いが彼らを駆り立てるのだろう。
のほほんと生きていける私たちが彼らを理解するのは容易じゃない。
そして彼らの生活をその暮らしをそこまで追い込んだのは一体誰なのか?
そこに私たちは加担していないと言い切れるのか。
もちろんどんな理由があってもテロは許されないが、理解の先にしか明日はない。
先日、知人からテロで心がざわついているというメールがあり。アントワーヌ・レリスさんのことを教えてもらった。
簡単に言える言葉じゃないと思う。
励まされ、勇気づけられる。
悲惨な事件が起こるたびに、その渦中の方々のことを思うと心が締め付けられる。
何かしたいと思う気持ちが湧いてくるのに、何もできないという無力感だけが積み重なって追い込まれていく。
罪悪感のようなものに苛まれる。
でも震災の時、私は思った。
いや、そう感じ、心配してくれるたくさんの方々の想いは、痛いほど届いている、と。
あの悲惨な状況で、日本中の、世界中の人々の沢山の想いがどれほど私たちを勇気づけてくれたことか。
想うだけでもそれは充分力になるのだということを実感した。
今迄何もできなかった自分を少し赦してあげられるようになったのは震災を経たからかもしれない。
そして今迄以上に私たちの分も奮闘してくださる沢山の方々を心から応援できるようになった。
ネットワークの普及で世界は小さくなったというけど、リアルタイムで瞬時に地球を駆け巡る情報は使い方次第でヒトを変える。
ベルリンの壁も各地の独立運動もその一端にすぎない。
そんなこれからの世界は何を考えるべきなのか。
彼らを自分たちの世界の向こう側に置いたままで世界は次へと向かえるのか。
『家栽の人』(作・毛利甚八 画・魚戸おさむ/小学館)で「いずれ彼らは、また私たちの隣人になる。そのときどうすることが彼らが良き隣人になるかを考えるのが私たちの仕事です」みたいな台詞があった・・・かなり曖昧(・・;)
おそらく彼らも、いつか私たちの隣で生きる人となるのじゃないか?
それとも私たちは彼らを殲滅し、葬り、彼らのいない世界を構築しようとするのか?
隣国やアジアの各国とはどう付き合っていくのか?
みんなで歩く明日をどう作るかを考えないとこの世界はいずれ行き詰まってしまうのではないか?
もちろん甘っちょろい理想論だ。
それは否定しない。
そんなのが今の非常事態に何の役にも立たないのも知っている。
人は嗤うだろう。
でも、私は思う。
キング牧師じゃないけど理想すら語れなくなった先に人類が手にするものは何なんだろうと。
レリスさんのように、その渦中の人が毅然としている姿には胸を打たれる。
私たちはその強さに背中を押してもらう。
自らがその渦中を生きる時そうありたいと心する。
もちろん前回書いたことは嘘じゃない。
心からそう思っている。
しかし、今実際に血を流してる当事者からみれば、リアリテイのない理想論である。
「いつか必ず」と誓うにしても、今、考えなければいけないことはたくさんある。
娘が誘拐されたら?
彼らが隣に越してきたら?
額に銃を突きつけられて同じ事が言えるか?
自分の命を晒していない者の戯言だと言われれば、その通りである。
私自身、子どもの頃いじめられてて、あいつらかいなくなればと真剣に願った。
正直死んでくれたらと考えたこともある。
そんな聖人君子じゃない。
利己的な臆病者に過ぎない。
居心地のいい世界でだけ生きていたいと思う。
でも、それも都合のいい話だ。
だって向こう側の人間のほうが多数かもしれない。
ただ彼らとてこの世に生を受けた瞬間から憎しみや使命感で一杯だったわけではあるまい。
子どもから大人へと成長していく中で、取り巻く環境や現実の生活、身近な大人たちの考え方に影響をうけて、今に至るのだろう。
それは私たちが育ってきた世界とはかなり違うはずだ。
行動することでしか自分たちの、さらに愛する子どもたちの世代の未來は作れないという想いが彼らを駆り立てるのだろう。
のほほんと生きていける私たちが彼らを理解するのは容易じゃない。
そして彼らの生活をその暮らしをそこまで追い込んだのは一体誰なのか?
そこに私たちは加担していないと言い切れるのか。
もちろんどんな理由があってもテロは許されないが、理解の先にしか明日はない。
先日、知人からテロで心がざわついているというメールがあり。アントワーヌ・レリスさんのことを教えてもらった。
簡単に言える言葉じゃないと思う。
励まされ、勇気づけられる。
悲惨な事件が起こるたびに、その渦中の方々のことを思うと心が締め付けられる。
何かしたいと思う気持ちが湧いてくるのに、何もできないという無力感だけが積み重なって追い込まれていく。
罪悪感のようなものに苛まれる。
でも震災の時、私は思った。
いや、そう感じ、心配してくれるたくさんの方々の想いは、痛いほど届いている、と。
あの悲惨な状況で、日本中の、世界中の人々の沢山の想いがどれほど私たちを勇気づけてくれたことか。
想うだけでもそれは充分力になるのだということを実感した。
今迄何もできなかった自分を少し赦してあげられるようになったのは震災を経たからかもしれない。
そして今迄以上に私たちの分も奮闘してくださる沢山の方々を心から応援できるようになった。
ネットワークの普及で世界は小さくなったというけど、リアルタイムで瞬時に地球を駆け巡る情報は使い方次第でヒトを変える。
ベルリンの壁も各地の独立運動もその一端にすぎない。
そんなこれからの世界は何を考えるべきなのか。
彼らを自分たちの世界の向こう側に置いたままで世界は次へと向かえるのか。
『家栽の人』(作・毛利甚八 画・魚戸おさむ/小学館)で「いずれ彼らは、また私たちの隣人になる。そのときどうすることが彼らが良き隣人になるかを考えるのが私たちの仕事です」みたいな台詞があった・・・かなり曖昧(・・;)
おそらく彼らも、いつか私たちの隣で生きる人となるのじゃないか?
それとも私たちは彼らを殲滅し、葬り、彼らのいない世界を構築しようとするのか?
隣国やアジアの各国とはどう付き合っていくのか?
みんなで歩く明日をどう作るかを考えないとこの世界はいずれ行き詰まってしまうのではないか?
もちろん甘っちょろい理想論だ。
それは否定しない。
そんなのが今の非常事態に何の役にも立たないのも知っている。
人は嗤うだろう。
でも、私は思う。
キング牧師じゃないけど理想すら語れなくなった先に人類が手にするものは何なんだろうと。
レリスさんのように、その渦中の人が毅然としている姿には胸を打たれる。
私たちはその強さに背中を押してもらう。
自らがその渦中を生きる時そうありたいと心する。