10/13の深夜、渋谷の7つの会場において突如開催されることとなった全感覚祭について。
私は途方もなく打ちのめされてしまったので、書き連ねます。
こんばんは、ユキちゃんです。
当初開催予定だった10/12印旛開催のの全感覚祭については、遊びに行くつもりではありませんでした。
仕事が入っている予定だったし、投げ銭とはいえ千葉までのこのこ出かけて行くにはリスクが高過ぎて。
まあ見れたら見たいけど、人でごった返す野外で過ごして終電を気にするのもやだしなぁ、といったところでした。
急遽の渋谷での開催。何より歴史やルールがしっかりしている各ライブハウス会場の面々をみて、こんなことができるのはすごいし、こんなことができるのは今のGEZANに色んな人が既に心動かされている証拠だし、こんなことを企画してしまってそれで客側としてはどういう結果になるのか、参加して見届けたいなって気持ちでのこのこやってきました。
空気が変わったのは23:40頃。
元ドンキホーテがあった辺りのあの道ですれ違う若者達が、
様々な衣服や雰囲気を見に纏った若者達が、GEZANや全感覚祭の話をしながら歩いていた。
軒並み、その話だった。
そんなことは初めてのことだった。
いまは三連休真っ只中の若者の街渋谷、
これまでどんなにいいイベントでも、どんなに人が来たイベントでも、
渋谷の街ですれ違う人たちがもれなくみんな参加者であるなんてことはなかった。
たいていオラついた男女の喧騒や、外国人の勢いに紛れてしまって、あの人もこの人も、なんてことは今までなかった。
だってここは、渋谷だし。
H&Mのビルの角をまがれば、一発目のGEZANを見ようとクアトロに並ぶ人の列がまるまるぐるりと一周していた。
道行くおじさん達がこれは何の列なんだ。こんなすごいの見たことないよ。と呟いていて心躍った。
わたしも見たことない。そして入れない。ライブハウスに入れない。
0:00を回るとライブハウスどころか受付も締め切ったとの情報が回ってきた。
それでもすれ違う人の熱量は冷める気配がなかった。
音楽を聴きに来たのかも疑わしく、祭りに参加しようなんてそんな崇高な意識も微塵も感じ取れない、夜を奪いに来たような混沌さだった。
大阪で開催された全感覚祭について、素敵な文章を書かれた方がいる。
大阪の全感覚祭で自分の考え方だと丁寧に前置きされながら、
私たちがマヒトのmcに対してちゃんと理解しないまま「イェーイ!!」って言ってたのを、僕はこういうことだと思ってますよっていうのをめちゃめちゃ丁寧に説明してくださっている。
これ本当にすごいいい文章だなって、思っているのですが、私はこの文章で彼が語っていることについて、概ね賛同できなかった。
彼はこのnoteのなかで、
バースデーソングが誰かのために歌われたとき、純粋な音楽が残るとと言った。
でも私にとっての音楽ってそうじゃなかった。
それって歌える側の人の意見じゃない?って思ってしまった。
バースデーソング、歌ってもらえたら嬉しいけど、そこに感動とか感謝とか残った時に、それをお金に還元して渡せると、すごい楽だ。私は。
だってわたしには造れないものが造れて、それを渡されて嬉しかったら、何もできないけどお返しはしたいって思うからだ。
純粋な音楽を追い求めれるのはそれはすごい素敵で尊いことだけど、そうやって何もできない私のこと取り残さないで!って叫んでしまう。
ダンスでも絵でも花でも言葉でも身体でも、私の気持ちを伝えないと、私の気持ちはいらないみたいなそんな置いて行き方しないで!だって救われたんだから。救われてるんだから。
っていう私の意見。
いまちょっと見栄張っていい子ぶって書いたけど、その裏もある。
私は資本主義大好きだし男尊女卑でいいし観客でいいし一般人でいい。
なぜかというと楽だから。
なぜかというと、何もできないやつにも救いがあるから。
みんな平等の共産主義なんてまっぴらごめんだけど、誰かの価値に対してお金を払うことができる資本主義社会なら何も持ってなくても生きていける。
男女平等社会はある程度は確立されるべきだけど、男と女の持てる基礎的な能力の違いがもっと可視化されるべきで、目指すべきは完璧な平等ではない。重いもの持てるけど、持ってくれたら嬉しい。
企画や連絡係はまっぴらごめんだけど、提供されたら見合うお金を気持ちよく払いたい。
竹藪の中に埋もれて一枚だけ赤い笹の葉をつけていれば、それだけでもちやほやしてもらえるかもしれない。
楽したい。
生きていく上で楽したいよ。
頑張れなかったときや頑張って評価されなかったときが怖いもの。
楽に生きれるうちは楽したいんだ。とんでもなく。
GEZANの歌だって前の曲の方が好き!
最近の曲もかっこいいけどPVそんなにYouTubeにあげてないし、やっぱり瘡蓋と爆撃機とかSchool of fuckとか聴かせてよ!
懐古厨のつもりはないけど、盛り上がるの分かってるほうが、GEZANだって楽じゃん。
そういう私の、
情けない、欲深い、だらしない精神を、
言葉でもなく、もはや音楽でもなく、
その生き方でぶん殴ってくれたのが、
この全感覚祭でした。
生きていた。
生きているのを見せられてしまった。
フリーイベントだと勘違いしたとしても、渋谷に8000人程の人を3日前の告知で集めたこと。
人々の中にえも言われぬ混沌を生んだこと。
鳴らされる音楽と、鳴らす人側の想い。
ステージを見上げながら、路上に座り込む人を見ながら、生まれ続ける違和感。
好きな人と、知らない人と、見たことある人と、関わりたくない人と、仲良くなれそうな人の気配。
これを創り上げたのは、
ずっと挑戦することを辞めなかったGEZANで。
私たちが投げ銭イベントただでも入れるイェーイって言ってきて、
今日のライブあれがよかったこれがよかったって言ってきて、
売れたらいいとか売れて当然だとかいってきて、
昔の曲やれとか、あの頃がいいとか言ってきても、
挑戦して、
作り続けて、
歌い続けたGEZANで。
面倒臭くて、楽が良くて、人種差別的で、ルールにうるさくて、優しくなくて、優しくて、理不尽で、金儲けで、
そういうのとずっと戦ってきて今を作れるGEZANの歴史と生き様がこの夜を作ったのを、
目の当たりにされてしまった。
肌で心で感じてしまった。
解らされてしまった。
GEZANにしか造れない夜で、
紛れもなくGEZANが目指している夜で、
それが理想でも歌う未来でもなく、
目の前に広がっている。
どの曲でとか、誰のmcでとかじゃなくて、この祭と称されて街ごと奪われた渋谷の夜に、私は解らされました。
強いて言うなら最後のステージ、
始まった「エクスタシー」、
聞いたことなかったけど、
みんなが好きなジャンルじゃないかもしれないけど、
本当にかっこよかった。
歌詞とかメロディとか関係なくて、関係なくないけど関係ないぐらいに正解であるってことを全身が渦巻く感覚だった。
バンドとしての生き様に、
この作られた全感覚祭に、
鳴らされる音楽よりも生きていることを見せつけられるなんて
そんな体験思いもよらなかった。
思いが走りすぎて言いたいことの重ね書きで長くなってしまった。
全感覚祭の素晴らしいところは、
GEZANというバンドが息をして、
バンド単位で生き渦巻いているので、
今日が終わりではなくまだまだ始まったばかりなんだって気付かされたこと。
これを続けていくのは紛れもなく自分たち一人一人で、そのために投げ銭とか募金とかボランティアとかの画期的なシステムが開放されていること。
GEZANの今までの道筋があまりにも真っ直ぐで正しく美しいので、それに不満や不平や疑いの余地がないこと。
未来がある。
混沌に見えるのは未来があるから。
未来があるものを、私たちは知らなかったんだ。
全感覚祭で、私は未来をみたよ。
救いある音楽だ。
かっこよかった、ありがとう。
未来があるので、行けなかった人入れなかった人、お金がある人、
来年に、来年会おうね:)
余談
これから先どんなに美しいステージで美しい音楽を奏でても、Have a Nice Day!にはライブハウスのすみっこで必ずゾンビが群れをなす。スカムパークの呪いがついて回るぞ。
ってduoの喫煙所でめちゃくちゃにダンスしながら思ったんだ。