脳卒中 奇跡の一年

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 脳卒中に罹患した方々の、あるいは周囲のバイブルとなる本をめざした。お読みいただければ、小難しい本とは対極にあることも理解されるだろう。
 実生活のなかで、笑いやユーモアは、とてもとても大切だから。
 本書の特徴は、社会学、医学、薬学、運動学、そして人生論の専門家が、重い脳卒中にかかり、机上の論文としてではなく、ナマの患者として焦らず一歩一歩着実にリハビリテーンションなどによって、実際に無数の目標を遂げたヒントを詳録したことだ。「ここまではできるようになりたい」「ビリヤードができない私は私ではない」「調理人に復職したい」などの、大小の目標は、どんなに重い脳卒中になろうとも、必ずやり遂げられるだろう、という実践の記録でもある。

 重い脳卒中(脳梗塞など)になって、即死したらある意味仕方のない領域に入り、また脳は使われていない部位がむしろ圧倒的に多いくらいだから「なんかあったかな」で済む場合は、ともに除外する。

 私は2015年11月25日、午前7時15分ごろ、元気満杯しかも最高のスコアを記録する予感もあり、絶好調であったのに、次の瞬間、バタンと床に倒れた。
 場所はグアム。この島で最大のホテルに全員が宿泊し、その日のラウンドも7時半、1部屋で軽い朝食を済ませ、さあ行きましょう、と闊達に立ち上がった瞬間、倒れたまま、全身が動かず、声も発せられなかった。
 私の意識は残っており、そのホテルが日本企業のものであるだけでなく、正社員も、また客も日本人だけの――オリンピック日本委員指定会強化施設もなっている最良の施設やコートを誇る――ホテルだけに、しかも仲間たちは英語も達者なのだが、私の常識的な唯一の願い「救急車をすぐ呼んで!」を理解できなかったばかりか――理解しなくても救急車を自らの判断で呼ばなければいつ呼ぶの、という話だ――7時間半もベッドに放置した。「ゴルフのスタート時間を13時に変更しましたっ」という、刑法民法ともに重過失に基づく暴挙により、私は「要介護3」の身障者であるばかりか、数々の高次脳梗塞障害に苦しむ立派な脳破壊者になった。
 発病後半年目に日米両国の弁護団と脳外科チームによりすべての検証が行なわれ、ホテルから、ゆとりをもって1~3時間で――実際は20分程度――病院に行っていれば、何の後遺症も残らなかった旨の結論が出た。

 何より私にとっては、正確な現状認識が必要だったのだ。大量の薬を生涯に亘って飲むように主治医は断言するのだが、私の血液は一貫してサラサラであり梗塞などどこにも適用もなく、実際いかなる血管にも梗塞など一つも見つからなかった。心臓由来でもまったくなかったから、いままで飲まされた幾種かつ大量のクスリに対する説明を文字等で求めるも、暖簾に腕押し状態。
 リハビリ病院は、医師だけは厚労省が要求するためだけの「飾り物」となっている――介護士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、看護師、各種ワーカー、栄養士らが実働部隊なのである。
 米国の海軍病院(グアム準州最大の病院)へ結果的に入院できたことは、後遺症から逃れられなかったこちらサイドの重過失はいまは措くとして、左半身麻痺や頭部麻痺のほか、嚥下(えんげ)障害、記憶障害、バランス障害、水分を口から摂取できない長い期間もあり、並行して病んだ機能は主なもので105はあった。のちに、もっと増える。

 海軍病院からある日、比較的体調の良かった時間帯を選んで帰国を実現し――アメリカの医療費は馬鹿高い、というのは本当だ。1日30万円はかかった――、私はまだ何が何だか分かっておらず、友達と「入院するがどうかの賭けをしよう」と提案していたほどである。
 急性期病院と呼ばれる都立病院での、実態は都の看護師の残虐なイジメと、「私の長い知見と体験によって、これだけは断言できます。10日もないリハビリだったけれども、私の生徒さんに、惨めな思いはしてほしくないの。今後20年、30年経っても、日垣さんがプロの書き手になれることはありません。そこに希望を持つことはとても不幸なことです。何があっても、そんな夢は持たないで!」という言語聴覚士チーフの断言、いや、死ねというのに等しい宣告をすることが彼女または東京都の流儀だ
 これが見事に外れる――私の努力と工夫で発病後わずか1カ月もかからずプロとして復活した――詳しくは『脳梗塞日誌』(大和書房)を参照されたい――。
 東京都や知事を訴えるつもりはない。そんな形式的関係には興味はない。彼女を刑事的に追い詰めることが、今後の患者たちのためになる。彼女に裁判所が下すのは、医療重過失だった。民事では都から1億程度を取れるところ、そうせず、彼女に損害賠償を課した。

 私は2015年12月11日から5月5日までリハビリテーンション病院に入院することになる。その後も治療やリハビリは続けている。リハビリはリハビリのためにあるのではなく、前向きな人生を築いていくためにリハビリを組み込んでいくのが正しい。
  私はいま一切の服薬をしていない。処方されたクスリは、血液も心臓も身体年齢24歳の身体には、毒でしかないことが判明したからである。

 服薬、再発防止、転倒回避、リハビリ計画――何をいつまで何のために――を通して、究極的には尊厳ある人として、どんなことを次々と実践していくのか、が何より重要なことではないか?
 これからドキュメントされることは、幾つもの目標(かつては普通にできていたことだが、医師などは絶対無理と断言した)をやり遂げ、そして実際にやってみて様々な発見をなした事実の群れである。
 もちろん、読みやすく書くことにプロとして努力を惜しまず、かつ専門分野は専門家より詳しく抑えながら、「使える」技術を軸とし、またその「考え方」をオープンにした。

 リハビリ病院の4階に私は入院していたのだが、退院日まで1階に1人で降りることは許可されず、1度も単独で外を歩くことなかった。卒業――というより、ほぼ最大日数の入院期間が迫っていたため、「追い出された」という多くの例となった。
 このことに私は恨んでなどいない。病院には病院経営の事情がある。患者一人一人のことを考えている医療関係者に、皆様もお目にかかったことはないのではないか。我々は、ありもしない理想を前提としてはならない。現実から処方を組み立てていくしかない。

 全体像を把握している専門家は一人もいないのである。それは本人や家族の工夫、常用薬を隔週に処方してくれる非専門医のアドバイスもありうるだろう。私が服薬をしないことがベストと判明するためのプロジェクトに1万円ほどしか負担していない。

 本日(2017年1月4日)は病後、初めて上野動物園に行った。動物園まで電車を使うのか、上野動物園は東京で最も広い動物園なので中だけで疲労する可能性も高く、行きは公園不忍(しのばず)口の改札口までタクシーにした。――というような、病前とあらゆることが異なり、疲れ方も未知の領域なのである。
「大人しく」しているのがラクだとしても、その代わりあっという間に「要介護5」となり、寝たきりになるまでに5週間とかからない。

 本書では、かなり個人的な趣味と実益を兼ねた目標――カジノを再び――もやり遂げただけでなく、病前より(壊死した左脳部を補うため、リハビリにより)驚くほど活性化していたイメージやアイデアに優れる右脳に、本人やプレーを一緒にやった仲間たちも心から復帰を祝ってくれたことにも触れている。

 リハビリとは、もともとアルコール中毒から集団で脱する法、あるいは銃撃で被弾したあとや、交通事故での高次脳機能障害の治癒に、使われていた。
 最近の日本では、リハビリにより、脳卒中など各種の病で人としての尊厳を取り戻し、医療関係者たちには考えも及ばない奇跡的な仕事やクリエイティブな営みが、次々と現実化している。
 医療より、患者のリハビリが数十段も上をいっているのです!