昨日は、右手で初めて髪を洗う。身体の重要な一部も。ちんこのことではない。基本は麻痺が小さかった左手で洗っているのだが、かなりの技が必要なのである。とくに全身を洗う左腕そのものを、どう洗うか。私は左膝(ひざ)のうえに手ぬぐいを載せ、そこへ左腕をもっていってクネクネと回転させて洗い、手ぬぐいに届かない肩の背中側は、左手自身がカバーする。身体が柔らかいのが幸い――したのか、この壊滅寸前で(笑)――笑うところでもないか。

 髪を両手で洗ったのは、11月24日の昼間、ゴルフ後のシャワーが最後だったことになる。
 多くの方は、何気なく髪や身体を洗っているだろう。実はかなり複雑な筋肉の動きが伴う。

 完全に麻痺した右腕全体や右足全体を例にとれば、まず申し上げておかないと混乱――私が(笑)――するのは、12月12日までの2週間あまり、そのことに私は気づかなかった。いまの病院に移って、スタッフ全員から「寝るときは右腕を身体の下に置かないように気をつけてくださいね」と言われ、うむむ、俺の利き腕も危機らしいと初めてぼんやりした課題となった。足のことはまだ気づいていないので、前の病院ではダイブしては血まみれになる毎日だった。だってさ、歩けると思っているんだからね、ずっと。

 リハビリは同じ12月12日からさっそく始まるのだけれども、万全な態勢でコーチをベッドで待ち、広大なリハビリ・ルームに向かうとき、それから20回は言われることになる言葉は、いまとなっては懐かしい――。
「日垣さん、忘れてますよ、右手」

 普通、いわれないよなあ。
 12月18日のドクターによる1時間半の説明と方針によれば、たとえば右腕(利き腕)の障害指数は1であった。障害度に応じて明確な指標があり、1は動かないに等しく、6は障害はあるけれどもかなり頑張れる、ということになる。それにしても、なんと1。笑うしかないではないか。希望がない――ように見えた。

 作業療法士の小倉さん(26歳、男性)のレッスンを受けるのは、やはり昨年12月12日から。ビクともしない右腕と、弱りきった左腕その他。若い小倉さんの目は、マジでキラキラしていた。完全麻痺した腕を本気で動かそうとしてるよ、この青年。俺も真剣なつもりだったのに、全然たりなかったように思えてくる。

 12日午後の、初めての入浴にも、家族が一通り見学をしにきたその瞬間、迂闊(うかつ)だったのか油断したのか、「きゃあ~~っ」と言ってしまった者がおる。なにごとじゃ。その日の私の入浴担当も小倉さんだった。この叫び声には、どう反応すべきか迷っていたように思える。その悲鳴によって、私の全身におよぶ麻痺と、とりわけ右腕と右足の筋肉がいたるところ、ごっそり落ちている事実に私も初めて気がついた。ううむ。すごいことになっているようではないか。脳が縮んでいるので、ふうんそうなのか、くらいなんだけどね。

 長期入院患者は、3つの課目や生活能力につき、それぞれ20~30項目ほど、初回と1カ月ごとに検査をする。
 たとえば私の右の握力は、12月16日の測定で0.0kg → 1月14日は0.9kg →
2月7日の検査で6.8kgとなった。よく働いている利き腕「代行」の左は21kgが42kgまでは戻っている。
 ちなみに、握力を3度ずつ測ったとしても、普通は少し間をおけば、変わらない。が、確か6.8kg、5.6kg、5.1kgになった。公式の病院記録では6.8kgとなるのだが、脳梗塞にやられた場合、99%の患者は3回の記録がこのように下がる。
 なぜか。

右手に握力がわずかに戻る

 例の「この病気には完治がない」と(文学ではなく)科学的に強く関連するのだけれど、動かない→動き始める、という神秘的な瞬間に――受精するのはたいてい1匹のみという激しい競争とは比較にならないとはいえ(死んだ精子数億匹は堪らんことはないだろう)――動き始めて一定期間にせいぜい数分の1程度の細胞が覚醒する。数十分の1のこともあり、数百分の1のこともある。その少数精鋭が、最後まで少数精鋭のまま、頑張り続けるのだ。泣ける話ではないか。

 このとき全部の細胞が蘇ることはない。この少数精鋭によって実質的に元のように活動している部位は、私の場合でも50くらいにはなっただろう。左足とか、この原稿をLINEで書いている左の親指とか――以前はある程度の長さになると送らなくなり、分割しなければならなかったのに、いつの間にこんな量でも一回で送れるようになったのかあ、拍手――、嚥下障害とかも全く気にならない程度になった。もともと気にするほどの順位ではなかったけどね。

 私が病内でも重篤である理由は、まずプロが見れば分かるというほかに、障害の多さ、とりわけワースト3である発声や伝達能力、腕、足のいずれかがヤバいこと。私の場合は、全制覇の栄冠に輝ける星なのである。自分で言っとく。障害の標本市場のような私の、記録的な改善は他の患者に希望を与え、私も元気になる。

 おかげさまで、1カ月で言語療法は劣等生から一気に卒業、手や腕は恐怖と絶望の1から、一気に4まで伸び、今月は5まで狙えるかという段階。足にはとくに全精力を傾け、車椅子が不要となり、昨日から歩行で室内を歩ける許可が下りた。足はまだまだであることに変わりはなく、多くの入院患者は、もともと麻痺が私ほどひどくなかったこともあり、リハビリで地下鉄やらスーパーやらピクニックやらに出かけているなか、私はまだ室内しか独りでは歩けない。もちろん、完璧なバリアフリーね。

 室外に出るときには、必ずスタッフ・コールを押す。男では私だけが洗濯と乾燥を、ランドリーで行なっていたのだが、いまは仲間もふえた。
 なぜ始めたか――。

 最初は家族に当然のごとく任せていた。足も手もその他もろもろも壊れていたのだ。が、少しは動くようになり、とくに左手の回復は目覚ましかった。もともと洗濯やアイロンは自分でする派であったものの、臨戦では家族に頼るのも仕方ないと思い込んでいたところ、女性はたいてい自分でやっている姿に胸をうたれた。

 簡単に言ってしまえば、結婚していたり特定のパートナーや2~3日に1度はきてくれる人たちがいれば、男は洗濯をしない。女性の夫やパートナーは自分のことだけで精一杯になり(自宅で)、病院にすらろくにこないのが、ほとんどなのである。封建社会の名残りだろう――か。

 私が強調したいのは、別のことだ。重篤な女性患者も、スタッフの助けを借りながら、洗濯や折りたたみなどを自分でやっている人は、確実に回復スピードが速い。それを発見してから即、私は洗濯その他を自分でやるようになった。


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