司法試験の世界には、古くから「基本書か予備校本か」という争点があります。
勉強のメインに据える教材をどちらにするのか、この点を巡って延々と議論が続いています。
ロースクール時代になっても、この議論はたびたび耳にします。
実際には、純粋にどちらか一方だけでよいとする「純粋基本書主義」や「純粋予備校本主義」のような立場もあれば、どちらか一方をメインにしてもう一方を辞書的に使用することを容認する折衷的な立場までいろいろありますが、この際細かいことはどうでもいいです。
ようするに、(特に基本書主義のほうに顕著ですが)テキストを読み込む勉強をメインに据える必要があるということを前提に、そのテキストを基本書にすべきか予備校本にすべきか、という対立です。
結論から申し上げますが、私はこの対立は無意味かつ不毛(要するに愚問)だと思っています。
なぜなら、「司法試験に合格するために必要な勉強は何か」という観点に定位するなら、そもそも「基本書じゃなきゃダメ」とか、「いやいや予備校本でもいいんじゃないか」といった主張そのものが、問いとして核心を外している(そもそもの問題設定自体がズレている)と思うからです。
ブログなどでよくこんな主張を目にします。
①司法試験に受かるには、自分の考えを論理的に展開できるようになることが最も大事だ。
↓
②法律の論理が厳格に展開されているのは予備校本よりも基本書だ。
↓
③したがって、基本書を読めば司法試験に合格できる。
このような、バカまる出しなおよそ論理的とは言い難い主張を平気でする人は本当に多いです。
そもそも、①「論理」など、司法試験以外のどの学問分野でも前提として必要になるものです。
それが(論理学の試験ならいざ知らず)どうして司法試験で決定的に重要といえるのでしょうか。
全体の中で「論理」に一体どれだけの配点が割かれているというのでしょうか。
そもそも「論理」の出来具合は、受験生の間で相対的にどれだけ差がつくものなのでしょうか。
さらに角度を変えて、たとえば、①の命題(=司法試験の合否は論理が鍵を握っているとの主張)を、「①´司法試験は、正しい知識・論点を書けば受かる試験である」なんていう文に変えるのは何故ダメなのでしょうか。
こちら(①´)のほうが、「論理が云々…」といった①の抽象的で漠然とした主張よりも、はるかに実際の再現答案との照合率が高いように思うのですが。
その後の→②→③と続いていく論理展開も怪しいものですが、とりあえずその展開に問題がないとしても、すでに述べたように、①(前提)の立て方自体に無限に突っ込みどころがあるという意味で、この「論理」には問題がありすぎると言わざるをえません。
ちなみに、私は上記の①が1%の妥当性も有していないと言いたいのではありません。
①´のように司法試験の核心が知識・論点にあると言いたいのでも(もちろん)ありません。
そうではなくて、受験界にあふれる、「私は司法試験とは○○だと思う」的な主張のほとんどが、その人個人の恣意的な“思いつき”の域を出ていないと感じる、ということです。
これでは、「泳げるようになりたい」と言っている子どもに対して、
①泳げるようになるためには、体力(or技術)が最も大事だ。
↓
②一番体力がつくのはマラソンだ(or技術が学べるのは水泳の教本だ)。
↓
③したがって、マラソン(or教本の読解)をすれば泳げるようになる。
とアドバイスするようなものです。
いま、水泳に必要な要素として「体力」と「技術」を思いつくまま挙げてみましたが、こういうテキトーな思いつき(論理のゴマカシ)はいくらでも可能です。
たとえば、
①およそ水泳もスポーツであり、スポーツができるようになるには体幹が最も大事だ。
↓
②体幹を鍛えるにはバランスボールが一番だ。
↓
③したがって、バランスボールに乗れば泳げるようになる。
みたいなゴマカシでもOKです。
水泳に少しでも関係がある①なら、無限に列挙できます。
そして、それ(①)を絶対化して、②(手段)に結び付けてしまえばいいのです。
このような「論理」は、なまじ目的と完全に無関係とはいえないものだからこそ、逆にその論理の瑕疵を納得してもらうのには苦労を要します。
書いている本人としては、一生懸命に頭を絞って「○○こそが司法試験に最も重要だ」と思いついたつもりかもしれませんし、今やそれが高じて「合格には○○以外にない」とまで信じ切るに至っているのかもしれませんが、(スペインの哲学者・オルテガの「大衆の観念は思いつき、信念は思い込み」という至言を引用させてもらえば)はっきり申し上げて、こういうのは単なる瞬間的な思いつきが時間的経過によって信念らしきものに凝固しただけの、全き思い込みの域を出ない浅知恵だと言わざるを得ません。
どうして素直に(そして論理的に)、「泳げるようになりたい」と言っている子どもに対して、
「泳ぎなさい!」
と言ってあげられないのでしょうか。
泳げるようになりたいのなら、基本的には、そのために必要な訓練は泳ぐことしかありません。
もちろんその上で別途必要を感じたなら、別メニューで筋トレなどをすることがあってもいいでしょう。
しかし、それはあくまでも、「泳ぐ」という基本に付随する間接的な課題にすぎません。
「泳ぐ」という基本を前提に、そこから論理的にその必要性が導かれるものでなければなりません。
あくまでも基本は泳ぐことです。
そこに、泳ぐことから見えてくるもの(ex.筋トレ)を付け加えても構いませんが、その手段が真に必要なものといえるためには、やはりその当人がしっかりと泳いでいることが不可欠の前提です。
以上で全てです。
他に必要なものは何もありません。
司法試験の勉強もそれと全く同じです。
泳いだら、泳げるようになります。
肌を焼いたら、肌が焼けます。
泳げるようになりたければ、泳げばいいのだし、
肌を焼きたければ、肌を焼けばいいのです。
同様に、皆さんは司法試験に受かりたいわけです。
言いかえると、司法試験の問題が(細かくいうと合格レベルで)解けるようになりたいわけです。
この問いに対応する、論理的に絶対に間違いのない答えは一つしかありません。
それは、司法試験の問題を解くこと です。
泳げるようになりたい人にとっての最適の練習が、泳ぐことであるのと同じように、司法試験の問題が解けるようになりたい人にとっての最適の練習は、司法試験の問題を解くことです。
これをおいて他にありません(さらに細かくいえば、これを合格レベルで解ければいいわけです)。
たとえば、司法試験の論文問題が解けるようになりたいのであれば、実際に出題された司法試験の論文問題を解いて、解いて、解いて、もし解く素材がなくなったら、それにできるだけ近いもの(ex.予備試験問題・ロー入試問題・旧試平成過去問・予備校問題)から順に潰していく。
この作業を時間切れまで延々と繰り返すことが、最も論理的に確実な合格への道です。
泳いで、泳いで、泳いだ人は、水泳の教本を読み続けた人より確実に、泳げるようになります。
同様に、司法試験の問題を解いて、解いて、解いた人は、基本書を読み続けた人よりも確実に、司法試験の問題が解けるようになります。
これほど単純で正しい論理はありません。
このメイン作業の合間に、論理的にその必要性を感じたなら、別メニューで練習することはもちろんOKですし、必要なことでもあるでしょう。
しかし、その人にとってどんな別メニューが必要なのかは、メインの課題をこなさなければ絶対に分かるはずがありません。
多くのロースクール生がやっているような、最初から「別メニューありき」で始まるようなやり方(問題を解かずにいきなり基本書を読んだり、基本書読みをメインに据えるようなやり方)は、勉強方法を根本から間違えていると感じます。一言でいえば、やっていることがすべて“逆”なのです。
ちなみに、ごくごく稀に、極めてセンスの良い優秀な合格者であるにもかかわらず、この「別メニュー」が勉強のメインであったかのようにみえる受験生が(極めて稀ですが)いるのは確かです。
しかし、ここは私の見立てですが、そういう人は「司法試験の勉強:基本書読み」がもし「1:9」の配分であったとしても、やはり発端の「1」から目を逸らすことなく、その「1」を手掛かりにして必要なことを「9」から取り出していると感じます(ex.3年位前の純粋未修出身で1番で受かった基本書主義の合格者などからは、そういう感じを濃厚に受けます)。
その意味で、私はある受験生が本当に誤魔化しなく司法試験を見つめて、目的意識を司法試験合格にしっかりと定位して、それでもなお、その人が「基本書を読むことが必要だ」と偽りなく感じたのであれば、それを否定するつもりは毛頭ない、ということです。
(もっとも、そういうケースは極めて稀であろうと思いますし、目的意識をしっかり持てば、過去問演習の重要性に目が向く場合がほとんどだと思いますし、実際、基本書の読み込みに逃げているとしか思えない受験生が圧倒的多数であることもまた確かだと思っています)
ともあれ、ここに「基本書か予備校本か」などという筋違いな問いが出てくる余地はほとんどありません。
「司法試験の問題が解けるようになりたい」ときに、「基本書か予備校本か」などと問うのは、問いの発端から間違った愚問以外の何ものでもありません。
たとえていうなら、これから泳げるようにならなければいけない人が、「どの水着にしようか」と悩んでいるようなものです。
「もういいからさっさとプールに入りなさい」という感じです。
もちろん、間接的・付随的になら(たとえば辞書として使用するなら)、水着(基本書や予備校本)の有用性はあるといえるでしょう。けれど、それは最後まで間接的・付随的な有用性に留まります。
泳げるようになりたい(司法試験の問題が解けるようになりたい)という目的に真剣に定位したのなら、「どの水着にしようか」(基本書かor予備校本か)などという問いが、どうやっても核心的な問題になどなり得ないナンセンスな問いであることは誰にでも分かるはずです。
こんなもの、どっちでも好きなほうを使えばいい。
その程度の問題に過ぎません。
どうしても基本書か予備校本、どちらを(辞書として)買うか決めかねている人がいるなら、今ここで私が決めてさしあげます。
「基本書」と「予備校本」、左から順に指をさして、「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」で指が止まったほうを買ってください。科目毎に選んでいると時間がもったいないので、シリーズで揃っているものを全巻買ってください。はい、これであなたの辞書選びは完了です。
明日から問題を解いてください。
ちなみに、司法試験の世界でよくあるゴマカシのひとつに、
「大は小を兼ねる」的発想 があります。
司法試験に必要な分野(小)をよりも大きくて広い(感じがする)という意味で、たとえば基本書(大)のマスターが奨励されたりするのです。
調査官解説(大)でもロースクールの講義(大)でも何でもいいのですが、とにかく広いほうをやっておけば狭いほうはそれで対応できる(大は小を兼ねる)という主張です。
私にはこの主張は、卓球(小)ができるようになりたいという人に対して、テニス(大)は卓球に比べてコートが広く、ラケットやボールも大きく、動き回らなければならないスペースも広く、より多くの体力も使うため、テニスをやっていれば卓球にも対応できる、と言っているように聞こえます。
しかし、両者は似ているだけで全然違うスポーツです。
何もしないよりはマシかもしれませんが、基本的には、テニスをしたって所詮はテニスができるようになるだけです。卓球に必要な能力は僅かしか鍛えられないでしょう。
いえ、卓球をするのに余分な筋力や身体感覚を身に付けてしまうという意味では、あるいは有害ですらあるかもしれません(多くの人にとっては害のほうが大きい可能性もあります)。
間違っても、
テニスをすることで「私は卓球の訓練もしている」
などと自分を誤魔化してはいけません。
現在の司法試験受験生は、卓球の試験を受けるために、練習時間の半分以上をテニスに費やしているような人たちばかりです(これは、ロースクール制度が試験に関係ないことを勉強することを制度として強制するようになった事情が大きく関係しています)。
それゆえ、ある意味では残念なことに、そんな練習を続けた人の中からも、一定の割合で卓球の試験に合格する人が出てきてしまいます。
しかし、だからといって、そういう練習方法=勉強方法が正当なわけではありません。
確実に受かることと、そういうやり方でも受かることとの間には、絶対的な質的差異が存在します。
合格体験記をみると、後者の主張ばかりが幅を利かせていることが分かります。
私がこの手の主張を無責任だと思うのは、同じやり方を取って失敗していった無数の屍たちの存在を無視しているからです。
逆にいえば、受験生の大多数がこのようなゴマカシを続けている状況だからこそ(ロースクール時代以降、このゴマカシはより強力に受験生たちの間に浸透するようになりました)、自分を誤魔化すことなくきちんと卓球をすれば、間違いなく周りの受験生よりも卓球ができるようになります。
これは希望的観測でもなんでもない、単なる論理的な帰結であり、ほとんど物理的な法則です。
もしあなたが、明日から本当に自分を誤魔化すことなく「司法試験の勉強」を開始すれば、ほどなくあなたは、大方の受験生をぶち抜いて「司法試験ができる」ようになっていることでしょう。
(↑この感覚、分かっていただけるでしょうか・・・)
今まで出会った多くの受験生・合格者・不合格者・撤退者etc…のことを思い出すとき、とりわけセンスの良い合格者のことを思い出すとき、いつも私の脳内にはこの「論理」がよぎります。
×優秀な人は、優秀であるがゆえに優秀なのではありません。
△優秀な人は、優秀であるがゆえに優秀なやり方をしているのでもありません。
○優秀な人は、優秀なやり方をしている(してきた)がゆえに優秀なのです。
このことは間違いなく間違いのないことだと断言できます。
ちなみに、それでは、基本書(or予備校本)を読むことには何の意味も効果もないのでしょうか?
私がそうは言っていないことは、勘のいい方ならお気づきのことと思います。
そうです。基本書を読むことにも、ちゃんと論理的に確実な効果があります。
言うまでなく、基本書を読んで、読んで、読み続けていれば・・・
基本書が読めるようになります(キリッ ・・・
・・・お分かりいただけたでしょうか。
水泳ができるようになりたいという要求に対して、開口一番「体力が云々…」とか言い出している時点で、すでにその回答は本質からズレているのです。
少なくともその回答が、「泳げるようになりたいなら、泳いで、泳いで、泳ぎまくれ」という真っ当な助言に勝利することは永遠にありません。
問いと答えがズレた時点で負けなのです。
「司法試験に合格するには?」という問いに対する回答も、このような「ズレ」の有無を見ることで、一瞬でその真贋を判定することができます。
Q.
「司法試験の問題が解けるようになるにはどうしたらいいですか?」
と尋ねる受験生に対して、
A.
「論理がぁ・・」とか、「基本がぁ・・」とか、「深い理解がぁ・・」とか、「基本書がぁ・・」とか、「予備校本がぁ・・」とか、「判例がぁ・・」とか、「出題趣旨がぁ・・」とか、「ロースクールの先生がぁ・・」とか、「試験委員がぁ・・」とか、「合格者の○○さんがぁ・・」とか、・・・
そんな風に言い出した時点で即アウトです。
回答者が、有名なカリスマ講師であろうと一桁合格者であろうと、誰であろうと関係ありません。
問いと答えがズレているのですから、そんな答案は全部 「0点」 です。
こんな「0点答案」を有難がっている時点で、その受験生のセンスのなさは明白です。
少なくとも、この時点で優秀な受験生に大きな後れを取っていることは間違いありません。
本当に優秀な受験生は、論理的に、抽象的に、そしてもっとずっと真面目に考えています。
「論理的」とは、問いに対して本筋からズレることなく思考を繋いでいるということです。
「抽象的」とは、誰もが認めざるを得ないあたりまえの前提から答えを導いているということです。
「真面目」とは、そうやって導かれたあたりまえから逃げない・目を逸らさないということです。
ようするに、あたりまえのことをシンプルに考えている。
これが優秀な受験生のものの考え方です。
個別具体的なことをあれこれ複雑に考える、センスの悪い受験生とは対照的です。
優秀な受験生は、総じて目的意識が明確で、目的に正面から対峙する勇気を持っています。
間違っても、「基本書の論理がぁ・・」とか、「そもそも法律学というものはだね・・」とか、そういう自分の貧しい頭脳でこねくり回した頭の悪そうな具体的で個性的な議論(≒論理性を欠く思いつき)に逃げたりすることはありません。
そういう「不真面目」な目の逸らし方は、絶対にしません。
本当に優秀な人の思考方法というのは、悪い意味でバリエーションに富む凡人のそれとは違い、非常に端的で一様です。
目的意識が明確であれば、そして、そこから論理的に演繹していけば、誰もが同じ結論に辿り着かざるをえないような、そんな単純であたりまえのことしか言いません。
しかし、そんな単純であたりまえの話であるもかかわらず、そのことを理解→実行できている受験生はほとんどいません。
そればかりか、今日もまた皆が揃って、その人固有の論理(思いつき)と思想(思い込み)に逃げ続けています。
これが司法試験受験界の実情です。
でも、考えてみてください。
ここで述べた優秀な受験生たちも、個々人をみれば、皆たいした頭脳を持ち合わせている人たちではありません(もちろん私だってそうです)。
皆が皆、個々に取り上げれば、ただの凡人でしかありません。
残念ながら、あなたの頭脳もまた、どこからみても貧困極まりないものでしかありません。
そんな貧困極まりないあなたの頭脳が、あなた固有の論理を使って、あなた固有の答えなんか導いたところで、そんなものは検証するまでもなく最初から全部間違っているに決まっているではありませんか。
正しい答えが欲しいなら、自分の頭など使ってはいけません。
もちろん、目の前にいる教授や合格者や試験委員などの頭を借りるのもダメです。
そんな具体的なものに逃げてはダメです。
それは「不真面目」な受験生のすることです。
正しい答えが欲しいなら、自分の考えなど放棄して、言葉と論理に考えてもらうことです。
言葉と論理に考えてもらうと、必ずといっていいほど、あたりまえの結論しか出てきません。
そのあたりまえの結論から逃げないことこそが、真面目に考えるということなのです。
最後に。
受験界には、「司法試験に楽な方法はない」とか、「甘い話はない」とか、「夢のような合格法はない」とか、口を開くたびにそういう「説教」をしてくる受験生・合格者・指導者がたくさんいます。
予備校講師をやっているような人たちにさえ、そういう人は多いです。
そういう人はだいたい、「地道にやるしか道はないんだ」とか、受験時代自分が碌に考えてこなかったのをいいことに、受験生に自分と同様の思考停止を強いる傾向が強いです。しかし、合格者であることと、その人が本当にとことんまで「考え抜いたのか」ということは、完全に別の問題です。合格者だからといって、本当にとことんまで考え抜いているとは限りません(努力したことは間違いありませんが)。
むしろ司法試験では、途中で考えることをを放棄して、そのまま努力という名の惰性だけで受かったタイプの合格者が、残念ながら圧倒的に多いと言わざるを得ません。ですから、こういう人(ex.いま辰已の入門講座やってる人とか、あ、やばい書いちゃった・・)の言うことは話半分に聞くべきだと強く思います。
しかし、楽かどうかはともかく、確実な方法というものは今も昔もずっと変わらず厳然と存在している、と私は思っています。
そして、それはやっぱり結局は、「楽な方法」でもあるのだと思っています。
単にほとんどの人が使用しないというだけで、確実な方法それ自体は、ずっと昔から誰にでも手の届くところに存在し続けています。
あとは、受験生(あなた)がそれを使用する気になるかどうか、それだけの問題です。
実は、ほとんどの人が使用しないということには、それはそれで極めて根深い問題 があったりするのですが、しかし、いずれにせよ方法論はタダなのですから、それを使用しない手はないでしょう、と申し上げておきたいです。
・・・・・
今回は、別に偉そうな顔をして「受験生たちにはセンスがない」と言いたかったのではありません。
むしろその逆で、私自身、以前は間違いなくその「センスがない受験生」のひとりでした。
その頃を振り返って、かつての私と同じように、これまで述べてきたようなあたりまえの真実に目覚めてくれる受験生が一人でもいたらいいなぁ、と思ってこの記事を書きました。
次回は、基本書や予備校本といった単なるインプット教材を勉強のメインに据えることが、少なくとも一般論として、いかに司法試験合格という目的からズレているかということを、主として論文の処理手順を例に解説したいと思います。
⇒ 基本書を読んでも論文が書けるようにはならない へつづく
【補足】
自分の頭に自信がない人ほど、なぜか自分の頭で考えようとします。
自分の頭で考える人ほど、なぜか他人の頭を借りたがります。
以下は、そういうどうでもいい話です。
昔、受験仲間の一人に、「この数ヶ月一生懸命考えた結果、司法試験で最も大切なことは、“論点の問題の所在を把握することだ”と気づいた」と言っている人がいました(この人は三振しました)。
少し冷静になってみれば、こんなポッと出た思いつきにしかみえない具体的で特殊な主張が、司法試験の普遍的真実を言い当てているはずなどないことくらい誰にでも分かるはずです。
しかし、そのとき、その当人の中では、自分が生み出したその具体的で特殊で適当な思いつきによって、ついに司法試験の真実が明らかにされるに至った、とすっかり信じられてしまっています。
この思い込みの力は強大です。
経験上、こうなると何を言っても無駄です。あとは放っておくしかありません。
一度痛い目をみるまでは、その人が自分の思い込み(勘違い)を反省することはないでしょう。
いえ、一度の痛い目で終わればいいほうで、そのまま谷底へ真っ逆さま…の人のほうが多いです。
第三者からみれば滑稽な風景ですが、こういった思いつき→思い込みは、それほどまでに人を盲目にするのです。
自分に固有の(←ここ重要)真実ほど、人間にとって愛おしいものはないのです。
でも、「自分に固有」と「真実」は、両立しません。
「自分」を採りたければ、「真実」は捨てなければなりません。
「真実」が欲しいなら、「自分」(固有性)は捨てなければなりません。
このように、個々の受験生に自分の固有な頭を使ってうんうん考えさせると、そこから飛び出してくるのは、具体的で特殊な、栄養の偏ったジャンクフードのような主張ばかりです。
でも、自分の脳みそ(良くいえば個性的、悪くいえば特殊で偏った脳みそ)をフル活用して何かを考えれば、その結論が特殊で偏ったものになるのは当然です。
不思議なことでも何でもありません。
・・・・・
ここでひとつ興味深い話をします。
私の経験からいうと、こういった自分の特殊な頭ばかりを使いたがるセンスの悪い受験生には、ひとつの際立った特徴があります。
実は彼らは、日常的には自分の能力(頭脳)に自信がないと弱音をこぼすことが多いのです。
在学中に一発合格する自信も、上位合格する自信もない・・・こういう自己評価の低さです。
彼らは、自分の能力(頭脳)に自信がないことを、自分自身で率直に認めています。
ところが、です。 それなのに、です。
ここから先が変なのです。
そんな自分に自信がないはずの人たちこそが、なぜだかどういうわけか、自分の頭を使って考えようとするのです。
先ほどの「問題の所在が云々・・」の話に代表されるように、自分の腐った頭をこれでもかというくらいぐるぐる引っ掻き回して、自分の頭の中から自分固有の特殊な考えを引っ張り出してくるのです。
ここで先ほどの話を繰り返さなくてはなりませんが、自分の腐った脳みそをフル回転させたところで、そこから排泄されてくるアイデアなど、検証するまでもなく最初から全部腐ってるに決まっています。
そんなことは、「自分の頭に自信がない」と正当にも彼が表明したその時から、すでに明らかだったはずです。
それなのに、なぜだかどういうわけか、自分の頭が腐っていると「正当」に認識している人に限って、その腐った自分の頭にどこまでも頼ろうとする傾向があるのです。
(まあ、本当はその認識が、本当の意味で「正当」な認識ではないからなんでしょうけど・・)
この逆説的傾向は非常に興味深いです。
「自分の頭脳に自信がない」と告白しているその当人が、その信用性の低い頭脳を使いたがる。
つまり、一番信用してはいけないはずのものを、彼らは一生懸命に信じようとするのです。
さらに面白い傾向があります。
実は、こういう自分の頭(考え)を使いたがる人ほど、なぜか試験委員などの権威に弱いのです。
自分の特殊な頭(考え)を信じると言い張るなら、最後までその姿勢を貫き通せばいいものを、こういう自分の頭ばっかり使うセンスの悪い受験生ほど、試験委員やローの教授や上位合格者といった権威の言うことには、ほとんどまともな吟味さえすることなく、いとも簡単に膝を屈してしまいます。
彼らにとって、試験委員や学者や合格者の言葉は、批判や吟味が許されない「公理」のようです。
逆説もここまでくると滑稽ですらあります。
ちなみに念のために申し上げておくと、私は別に逆説がいけないと言いたいのではありません。
人の心理を細かく観察すると、どんな人間にもこのような「逆説的傾向」とでも呼ぶべきものが存在していることが分かります。
逆説的傾向それ自体は、人間に内在する普遍的性質だと私は考えています。
私が面白いと思うのは、
この「逆説」の内容が、受験生のセンスの 良or悪 に従って、なぜかちょうど 逆 になって表れるという不思議な現象です。
これまで述べてきたことを、今度はセンスの良い、優秀な受験生にあてはめてみます。
センスの良い優秀な受験生は、「自分に自信がない」とはあまり言いません。
表立って自信を表明することはなくても、殊更自分を卑下するような物言いはしないのが普通です。
要するに、彼らは言葉には出さなくとも、自分の頭脳の優秀性に自信を持っているようなのです。
そして、ここが極めて重要なところですが、そういう優秀な受験生ほど、自分の頭を使いません。
このブログで再三述べているように、優秀な受験生は、あたりまえのことしか考えません。
彼らの考えには、個性というものがほとんどありません。
まるで、自分の貧困な頭脳なんか使って考えたところで、そんなものは検証するまでもなく最初から全部間違っているに決まっている、と優秀な受験生はよく理解しているかのようです。
だからこそ彼らは、特殊な自分固有の考えよりも、あたりまえのほうを好むのでしょう。
つまり、彼らは、自分の頭脳なんて、結局のところ全然信用していないのです。
さらに面白いのは、こういう自分の頭を信用していない優秀な受験生ほど、試験委員や合格者などの権威をそれだけで信じるようなことはない、ということです。
自分の頭が信用できないのなら、自分以外の権威を頼りにすればいいのに、優秀な受験生は、試験委員や合格者の言うことを、それだけで盲信したりすることは絶対にありません。
あくまでも、どこまでも、優秀な受験生は、あたりまえのことを、あたりまえに考えるだけです。
その「あたりまえ」が権威と一致すれば受け入れるし、一致しなければ受け入れない。
そうです。優秀な受験生は、やっぱり生意気なのです。
優秀な受験生は、自分を信用していないかにみえて、やはりしっかり自分で選択しているのです。
つまりは、自分の頭を使って考えているのです。
たとえば、ある基本書を読んでいて、そこにおかしな(としか思えないような)記述を発見したとします。
センスの悪い(自分に自信のない)受験生は、こういうときはほぼ必ず「う~ん分からない」と言います。
しかし、優秀な受験生は、こういうとき往々にして「ここ間違ってるんじゃない?」とか即座に言ったりします。
論理的に考えて完全に「おかしい」と思ったときは、どんな権威を相手にしても、彼らは「おかしい」と言うのです。
※ここで重要なポイントは、彼らの「おかしい」は、決して「自分で考えておかしい」のではない、ということです。
彼らが自信をもって「おかしい」と言い切るのは、「論理で考えておかしい」と思っているからです。
当たり前ですが、論理(あたりまえ)>試験委員 です。
論理(あたりまえ)を味方につけている人に、怖い人(盲信すべき人)などあるはずがありません。
彼らが「やっぱり生意気」なのは、「人」なんて怖れていないからなのです。
まとめます。
・自分の頭を使って考える=自分の頭脳を信用している 側面と
・自分の頭を使わない=自分の頭脳を信用していない 側面
この2つの側面は、このように、ひとりの人間の中で、交互に層をなして折り重なっています。
この階層構造自体は、すべての人間に普遍的に妥当するものです。
すべての人間が、自分の中に、この2つの層が織りなす「地層」を持っています。
私の関心を引くのは、センスの良い優秀な受験生とセンスの悪い受験生の「地層」の配置が、見事なまでに全部きれいにズレているという非常に興味深い(ある意味で残酷な)事実です。
センスの悪い受験生が自分の頭を使うところで、優秀な受験生は自分の頭を使いません。
その代わり、センスの悪い受験生が考えないところで、優秀な受験生はしっかり考えるのです。
「自分の頭を使って考えろ」という説教は、よく聞く台詞です。
便利なので私もときどき使います。
しかし、この厳命は、(これまで見てきたように)言うほど簡単なものではないようです。