志望理由書を書くコツは、何はともあれ、まずとっとと書いてしまうことです。
ぐずぐずしていて、いつの間にかロー入試間近になってしまい、ろくに推敲もしないままやっつけ仕事で適当なものを提出してしまう・・・というのが一番いけません。そうならないために、どんな出来でもいいので、まずは「たたき台」を用意することが是非とも必要です。
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まず、私の考えですが、志望理由書の良し悪しは、大きくいえば次の2つしかありません。
①内容の良し悪し
②文章(形式面)の良し悪し
この2つです。
ようするに、内容と形式です。
評価されるのはこの2つだけだと思います。
① で、まずは「内容」ですが、就活だろうとロー入試だろうと、それだけで他人に差をつけられるような題材(=内容)を持っている人は、けっして多くはないはずです。そんな素晴らしい内容があれば、今すでに思いついているはずです。そういう上手い話が思いつけないから、いつまでも筆が止まったままになっているのです。
そうだとすれば、私の考えは簡単です。まず、内容で勝負することはやめること。どうせ多くの受験生も大したことは思いついていないのですから、気にすることはありません。
そもそも、志望理由書の配点など小さいものです(多分)。しかも、評価基準に客観性がありません。それならば、こういった試験でとるべき戦略は(内容に自信があれば別ですが)とにかく守りに徹することなのです。
② つまり、内容ではなく、文章面の形式面に徹して、守りの勝負をするべきです。
要は、形式的に酷いものさえ書かなければOK、と考えるべきなのです。
ロー入試の志望理由書における「酷いもの」とは、文章の形式面において、他の受験生が提出している志望理由書の平均を明らかに下回る水準のものです。
もっとも、この基準をクリアするのは意外と簡単ではありません。
他の受験生もそれぞれ長い時間をかけて推敲を重ねてきているわけですし、何より文章の良し悪しを判定するのは、ただの一般人ではなく大学教授です。
ロー入試の志望理由書の「良or悪」を決める判定基準には、「大学教授レベルの読解力でしっかり読まれたとき」という極めて厳しい条件が付与されていることを決して忘れてはいけません。
【加筆】 自身の日本語能力の欠如に気づこうとしない人たちへ向けた絶望的提言
(2019年8月加筆)
このブログで何度も指摘してきたことですが、一般に、日本語能力の低い人ほど、自身の日本語能力の欠如に頑なに「気づこうとしない」傾向があります。
他のブログのコメント欄などで、「文章力には問題がないと思うのですが…なぜか受かりません」みたいな質問を見かけることがときどきあります。
困ったことに、そうやって「私の文章には問題がありません」と書いてくる人ほど、そのたった数行のコメントの中に、すでに日本語能力の「問題」(欠如)が露呈してしまっていることが多いです。
こういう書き込みを読むと、私などは思わず、「中学・高校レベルの現代文からやり直したほうがいいのではないか」と余計なアドバイスをしたくなってしまいます(したことはないですが)。
ところが、たった数行で自身の日本語能力の「問題」を露呈させてしまうような文章を書く人に限って、自身の文章力に「問題がない」とわざわざ先手を打って書いてくる傾向があるのです。
まるで、「中学・高校レベルからやり直したらどうか」という助言がくるのを事前に察知して、その助言を先回りして封じているかのようです。
しかし、これは容易に想像ができることですが、そもそも、本当に日本語能力に問題がない人は、自身の日本語能力に「問題がない」などとわざわざ書くことはありません。
それは、①彼らが自身の日本語能力の高さを知っているから(だから「問題がない」などとわざわざ書く必要がない)と言ってもいいですし、反対に、②彼らが自身の日本語能力の欠如を常に気にかけているから(だから「問題がない」なんてとても書けない)と言ってもいいです。
①と②は完全に逆方向を向いていますが、いずれにしても、実際に日本語能力に問題がない人が、「私の日本語能力には問題がない」などという不自然極まりない(無駄な)物言いをすることはまずあり得ないと言っていいです。
いちおう誤解のないように言っておくと、日本語能力に問題がない人でも、当然、文章をミスることは多々あるはずです。
ローに上位合格した人に、あとで自身の書いた志望理由書を「添削」させれば、やはり彼は、その自分の書いた文章の中に新たな不具合を見出すはずです。もし、彼がそのローに落ちていたら、彼はその不具合を不合格の原因と考えるかもしれません。
はっきり言えるのは、彼は、「私は日本語能力には問題がありませんので・・・」などとは決して言わない、ということです。
この【加筆】で一貫して問題にしているのは、そういう自分に対する「甘さ」の有無だということを強調しておきたいです。
ようするに、「私の日本語能力には問題がありません・・・」といった趣旨の内容を明示的・黙示的に書き込む受験生には、やはりある種の「能力」に問題があると考えざるを得ないのです。
ある種の「能力」とは、先天的に備わった「地頭」のことではありません。
あえて言うなら、この「能力」とは、自分の知らないことやできないこと(自分の中にある欠如)を正面から受け止める知的誠実性のことです。
偽らず、誤魔化さず、必要以上に驕らず、必要以上に卑下せず、あくまでも正確に、自らの能力のリアルを、ありのまま捉える誠実さ。この誠実さがあれば、たとえ現状のレベルがどんなに低くても、極端な話、小学生からやり直せば、誰でも東大にだって(もちろん司法試験にも)届くと私は信じています。
もっとも、実像以上に己を大きく見せたいという醜い自尊心に突き動かされて、身の丈も弁えず本来は完全に場違いだったはずの司法試験受験界に紛れ込んできてしまったある種の人たちが、このような知的誠実性に思いを致す可能性はほとんどないのだろうということもまた、私は信じています。
この「厳しい」基準をクリアすることを第一目的に、徹底的に文章を削り込んでいく必要があります。
もっとも、論理的に完全に破綻がなく、一切の無駄な要素が削り取られた洗練された文章を書くのは大変です。よほどの文章力がなければ、1~2週間で完成させることはできないと思います。
そこで、まずは志望理由書の実例を参考にして、自分なりの筋を大まかに作りましょう。
そこから半年~1年くらいかけて、(時々でいいので)じっくりと自分の文章を添削・修正していき、そのたびに少しずつ文章を洗練させていくのです。
簡単に手順をいうと、まずは内容面で最低限必要な事柄をキーワードで列挙します(何度も言いますが、内容的な素晴らしさを追求する必要はありません)。その上で、市販の書籍などに掲載されてる実例の中から、内容ではなく、文章の構造面で参考にしたいと思うものをピックアップして、その構造に先ほどのキーワードを乗せていくのです。
つまり、最低限の内容を自分で(キーワードで)列挙して、文章構造はそのままパクるわけです。パクっているのは構造だけなので、人に気づかれることはありません。
そうやって出来上がった最初のたたき台は、おそらく全体的にはかなり質の低いものだと思います。次に、これを少しずつ少しずつ、大事なメールやブログの文章を何度も何度も書き直す要領で、「てにをは」のようなひらがな一文字に至るまで、徹底的にこだわって修正していきます。
ときどきは、全体の構造を俯瞰的に見直してみることも重要です。
客観的な視点も大事です。友人に頼んで、分かりにくい表現・構成などを指摘してもらいましょう。
極端なことを言えば、他人の志望理由書をそのままたたき台に採用するのもアリです。
まず、志望理由が似ているもので、出来が良いと思う他人の文章を、そのまま自分のたたき台として採用します。その後、内容を少しずつ自分のものに入れ替えていき、同時に筋の修正も行います。
この入れ替え・修正が全体に及ぶまで「推敲」を繰り返していけば、最終的には元の文章とは全く違う自分の文章が出来上がることになります。この方法なら、「まずはたたき台を用意する」という人によっては一番億劫なプロセスを省略することができます。
①+②
そうやって、文章構造全体を直していく、言い換えれば、スタートからゴールまで文章の筋をきちんと通す作業を繰り返していくと、内容的な面、つまり自分が法曹を志望する理由のほうも、(そんなにダイナミックな理由ではないとしても)不思議とすっきり筋が通ったものになっていきます。内容に筋が通ってくると、志望理由書を前提とした面接においても、大抵の質問には筋の通った返答ができるようになるので、面接でも点が稼げて一石二鳥です。
先ほど、志望理由書は守りに徹すべき、と書きましたが、実は、文章を洗練させていくことは、結果として内容面のブラッシュアップにも繋がっていくことなのだと思います。
内容と形式(構造)は無関係ではないからです。
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以上が私の志望理由書の書き方のおすすめパターンです
これをやるには時間が必要です。
時間をかけるといっても、1日30分とか、そんな風に毎日のようにコツコツ継続する必要はありません。1~2ヵ月放ったままにする、とかでもいいです。ただ、ともかく長い時間を用意する必要があります(強いていえば、自分の文章を外側から客観視できるようになるだけの長い時間、ということでしょうか)。
よほどの文章の達人でない限り、完全に論理的に破綻のない文章を書くには時間がかかります。一方で、私の経験でもそうでしたが、たとえば半年かければ、そのぶん文章は良くなるものです。
時間をかけることには、それだけの甲斐があるのです。
しつこいですが、とにかく早くたたき台を書いてしまう、ということを強調しておきたいと思います。