ロースクール制度の正当性についての異見 | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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ロースクール時代の予備校の役割 の角度を変えた続編(のつもり)で書いています。

 

司法試験の受験生像の変遷を長々と述べてきたところで、ここで、旧司受験生との対比を意識した現在のロースクール生(新司合格者を含む)の特徴を、私なりに簡単にまとめてみます。

 

試験に関係ない勉強を大量にしており、その部分のレベルは上がっている。

試験に関係ある部分については、かつてよりもレベルが下がっている

 

これが現在のロースクール生(および新司法試験合格者)の特徴だと思います。

 

今回はこれを受けて、いわゆる「ロースクール制度の理念・趣旨」について、僭越ながらその評価を(通常とは違った角度から)してみたいと思います。同時に、「ロースクール=試験役に立つ」的な考え方(その間違い)を批判してみたいと思います。

 

私自身は、まさに、右に述べたようなロースクール生の現状を招来せしめた事態そのもの、すなわち、試験に関係ない部分の勉強を大量にさせ、返す刀で、試験に関係ある部分をクールダウンさせること、これこそがロースクールの理念・趣旨だったのだとすれば、ロースクール制度はひとまず成功していると評価してよいと思っています。

 

一方で、ローの授業やロー生の勉強が、試験と大きく関係するべきであり、試験との関係でも大きな成果をあげるべきなのだとすれば、そういった意味でのロー制度は端的に失敗しており、見通す限り今後も失敗し続けるだろうと思っています。

 

すでに述べたように、ロースクール制度は、勉強の範囲を試験に関係する以上に大きく広げることを、国の制度として強制するものです。

 

話を少しかえますが、元来、試験というものには、非常に強い「領海侵犯的性格」があります

 

「侵犯」とは、日常生活などの、試験と関係する近接領域に、試験の論理が侵入することです。

試験は、正解・不正解がはっきりしている点で人を思考の単純化に陥らせやすく、目的が明確である点で技術的志向を招きやすく、さらに、合否というのっぴきならない利益(不利益)がかけられている点で、人を実利優先志向に導きやすいです。


貨幣の論理や数量的判断など、近代の諸原理に人が流されやすいのと同様、試験が持つこの単純な分かりやすさや経済的価値の重みが、近接領域を押しのける説得力を与えてしまうのです。

結果的に、学校の勉強・日常生活・物事の価値観といった、試験にかかわる近接領域のすべてが、「結局受からなければ全てが無意味」という試験の論理の前に従属を強いられやすくなるのです。

たとえば、学校の勉強も試験に役立つか否かのみで判断されるようになりますし、日々の生活も試験に合わせて営まれるようになります。たとえどんな理想論を唱えようと、「所詮試験に受からなければ全てが無意味だ」という価値観(実利)の前には誰もが沈黙せざるを得ません。

 

そういう、関係する領域のすべてを「試験の論理」に染めてしまう力が、試験にはあります。

 

もっとも、そうであるからこそ、いつの時代も、試験への批判・警鐘が(その必要性とともに)叫ばれ続けたのでしょうし、ロー制度の趣旨のひとつも、この試験という暴れ馬を御すことにあったのだろうと私は考えます。

 

話を戻すと、つまり、ロースクール制度は、こういった純粋な試験への志向にブレーキをかけ、受験生に試験以外の勉強というハンデを課すことを、制度として正当化したものです。

 

これは、旧司受験生が試験に関係ある勉強しかしようとせず、そうであればあるほど理想的な受験生として称賛されたこと(これを、「試験○、ロー×」 の論理としておきます)と180°反対の価値観によって形成された制度です。


この制度の下で、試験以外の勉強を大量にすることになった結果、ロースクール生および新司合格者の試験に関係する部分のレベルは、良くいえば落ち着き、悪くいえば下降しました

 

物理法則に逆らえるはずはありません。冷静に考えれば、自然な結果がでただけのことです。

試験のレベルを下げようとして試験の頭を押さえつけたのですから、下降するのは当然です。

 

1日10時間卓球の練習をしていた人が、練習時間の半分をテニスに回さなければならなくなったとしたら、いくらテニスのコートが卓球のコートよりも広く、ラケットやボールが卓球よりひとまわり大きいからといっても、テニスの練習で卓球の練習が代替できるわけはありません。

当然、卓球の腕前は落ちていくことになります。
「大は小を兼ねない」のです。当たり前のことです。

 

それなのに、(ここからが大事なのですが)これを無理矢理、

「試験を超えた高尚な勉強をしている者こそが試験にも通るはずだ」などと、無理が通れば道理が引っ込むような強弁をするから、必要以上に事態がややこしくなるのです。

 

ロースクール擁護派の人たちは、司法試験に対して、2つの矛盾した考え方を持っています。

 

ひとつは「点による選抜から線による選抜へ」というスローガンにみられるような、

試験ではしょせん限定的な能力しか判定できない

という主張です。いわば試験=否定的な解釈です。

ところが、舌の根も乾かぬうちにその同じ口から、今度は、

ロースクールの講義が司法試験にどれだけ役立ったか

みたいな、さっき否定したはずの「点」を気にした試験=肯定的な(試験を気にしまくった)発言がでてくるのです。

 

あなたはその「点」(=試験)を否定していたんじゃないんですか?と尋ねたくなります。

 

この矛盾(絶対に矛盾しています)をどう解釈するべきでしょうか。

 

ひとつの理由は、ロー擁護派の人たちもまた、結局は司法試験という権威への信仰を捨て切れていない、ということが挙げられます。つまり、本音では、「線」(ロースクール)を「点」(司法試験)に従属するものくらいにしか考えていない、ということです。

 

そしてもうひとつ、(こちらのほうがタチが悪いのですが)ロー擁護派の人々が、上で述べた「試験の領海侵犯的性格」を甘く見て、簡単に「線」(ロー)をもって「点」(司法試験)を制圧できる(=ローという「大」が司法試験という「小」を兼ねうる)と短絡したことも大きな理由です。

 

この2つの理由もまた矛盾していますが、私自身がロースクールに行った経験からも、この2つの物の見方は矛盾しながらも多くのローの教授たちの中で共存してしまっていると感じます。

しかし、特にタチが悪いのは、後者の「短絡」のほうです。

 

つまりは、自分たち専門家が本気になりさえすれば、試験レベルを超える高度な教育を授けながら、同時に司法試験にも受からせることができる、と高をくくった(=司法試験を甘くみた)のです。

 

そうやって、ロースクールと司法試験との間に不用意に通路(関係性の論理)を作ってしまった結果、「試験に受からなければ全ては無意味」という「試験の論理」をロー側に招き入れることになってしまったわけです(これを、「試験○、ロー○⇒両者は有因」 という論理とします)。

 

このタイプの教員は結構多いです。ローの教授の中には、「ロースクールは試験対策をするところではありません」と、まずはローの役割を正しく捉えた発言をしておきながら、その直後に、「ローの授業をしっかりこなせば、司法試験にも問題なく合格できます」などという、ほとんど詐欺としか言いようのない犯罪的な(勘違い)を言う人が非常に多いです。

 

しかし、「点」(司法試験)と「線」(ロースクール)を無理に関係させる必要はなかったのではないでしょうか。両者は制度の発端から相容れないものとして認識されていたはずです。

上で述べたように、ロースクールという「線」は、「点」を否定(or制御・緩和)するために考えだされたはずのものだったからです。

 

ここで、論理的には、「線ができた以上、点は廃止するべきだ」との主張を打ち出すことももちろん可能です。(つまり、「試験×、ロー○」 という論理です)。これはこれで筋は通っています。

 

しかし、現実問題として司法試験は制度として存続していますし、今後も存続していくでしょう。

そして、教育政策の歴史を振り返れば、そういう勢力(=「試験○の論理」)が存在し続けることにも、おそらくは一定の理があるはずなのです。

 

そうだとすれば、両者を整合的に併存させる論理はただ一つしかありません。

 

それは、両者にはそれぞれ独立の価値があり、両方とも大事である と考えることです。

 

両者はそれぞれ別個の能力を測定・養成するために存在しており、関係性は必要ないと考えるわけです。(いわば、「試験○、ロー○⇒両者は無因」 という論理です)

 

これは特段無茶な考え方ではないと思います。

世の中の勉強には、役に立つ勉強(≒目的志向の勉強、答えがある勉強)と同時に、役に立たない勉強(≒目的の不明な勉強、答えのない勉強、問い自体を見つける勉強)が併存しています。

社会人になれば、特にこのことを実感すると思います。坐学で答えだけを効率的に学んでしまうことができる分野がある一方で、同僚や先輩との日々の対話の中で時間をかけて刷り込んでいかなければ身に付かない「勉強」もあります。

いわば、試験という「点」によるチェックができない勉強の領域があるということです。

 

両者はともに大事であり、どちらか一方があればいいというわけではありません。

そして、試験によって判定できるのが前者に限られ、後者はより広い意味での教育でしか養成できないというのも事実です。

 

つまり私が思うに、彼らは、「点か線か」ではなく、「点も線も」と言わなければならなかったはずなのです。

 

そして、先ほど述べた「試験の領海侵犯的性格」を考え併せると、「点」(試験)と「線」(ロー)の両方を肯定し、「試験○、ロー○」とした以上、「線」(ロー)の主権・独立を守りたいのであれば、「両者は無因である」と言わなければならなかったはずなのです。

 

そうしないで、「点」と「線」両方の存在を肯定(○)した上で両者に関係がある(有因である)と言ってしまえば、当然ですが、自らの守備範囲ではない試験のほうに対してもローは責任を負わなければならなくなってしまいます(現にそうなっています)。

 

その危険にローの教授たちが気づかなかったとすれば、全く愚かとしか言いようがありません。

 

思うに、法律学者たちが、結局は「試験」の側に、つまり「点あっての線」という考え方のほうにいとも簡単に引っ張られていってしまうのは、法律学という学問の来歴が強く関係していると思います。

 

法律学は他の学問(自然科学や社会科学)と違い、自然や社会の真理を探究する学問というよりも、法哲学者の碧海純一が指摘するように、神学(神の存在や聖書の記述など、疑ってはいけない前提がまずあって、そこから初めて知的営為が開始される「ルール」の学問)に近い学問です。

意地の悪い言い方をすれば、「国家の制度・権威を前提とした辻褄合わせの学問」という側面が(特に法解釈学には)顕著にあると思います。

 

「はじめに言葉(=神)があった」から始めるのが神学。

「はじめに法律(=国の制度)があった」から始めるのが法律学です。

 

法津学は、明治維新以降、官吏の選抜手段となることによって、実際の社会的実需をはるかに超える規模でその「市場」を広げていくことに成功した、いわば官民癒着の学問です。

こういった来歴を併せて考えると、法律学が試験制度と非常に親和的な「試験学問」的な性格を強く持っていること、そして、法学者たちの関心が結局は試験に強く引っ張られていくこと、こういった諸々の側面もむしろ当然のように感じられます。

法律学は、試験制度の存在によって大繁栄を遂げた、試験と二人三脚の学問なのです。

 

結局、上で述べた「点」と「線」についての学者先生方の矛盾を孕んだスタンスは、学問研究者としての自負と、試験学問の担い手としての自らの来歴の双方に引き裂かれる様が、そのまま形となって現れたものだ、といえるのではないでしょうか。

 

・・・・・

 

いろいろと書きましたが、私自身のスタンスはニュートラルです。

試験を超えて広く物事を学ぶ必要があるといっても、その手段がロースクールである必要などどこにもないからです。

別にロースクールでなくても、広く勉強することは全く問題なくできると私は思います。

 

ただ、あくまで一般論としてですが、試験に汲々とするタイプであればあるほど、広く勉強をしない傾向はたしかにあると思います。「広く勉強するのは受かった後にすればいいじゃん」と言っていた不勉強な友人が、その後実際に合格して広く勉強するようになったかといえば、やっぱりそういうことにはならないわけです。

 

私がロースクール制度に僅かばかりの評価を与えたいと思うのも、広い勉強をすることの意義を、ともかくも制度として体現しているからです。

 

もっとも、個人的にローに対して要望をいえば、せっかく大学と違い出席を強制し、講義だけで毎日何時間もの時間を費やしているわけですから、ローの勉強はローの時間内で完結するようにして欲しいところです。学生にとって試験の合否は死活問題なのですから、せめて、可処分時間の半分は試験に振り向けられるような仕組みにするべきです

 

そうしないで、ロースクールが学生に過度な負担を課して、学生から試験対策の時間を大幅に奪ってしまうものだから、逆にそのことを正当化するために、ロースクールの授業と司法試験が強い有因関係にあるかのような無理なウソ話を構築しなければならなくなるのです。

(↑ここ大事ですよ。分かってますか?)

 

しかし、卓球の練習は、テニスの練習に変わった途端、(いかに外づらが似ていようと)卓球の練習ではなくなります

この辺のシリアスな認識が、当事者性を欠くローの先生方に一番欠けている部分です。

 

ともあれ、ロー制度を擁護する方々は、もうこの辺でいい加減、「ロー=試験に役立つ」的な明白な嘘は取り下げて、試験には必ずしも役立たないのがロースクールであり、そのことには十分な意義がある、という観点から再び戦陣を組み直すべき時期が来ているのではないでしょうか。

 

そうしないと、手塩にかけて育てた卒業生たちが、ブラックバスに駆逐された日本の淡水魚よろしく、「試験の論理」で武装された予備試験組に一斉に食い殺されることになる日もそう遠くはないでしょう。

そのときに、まだ「ロースクール=試験に役立つ」的な嘘っぱちのスローガンを掲げ続けていたら、もうブラックバスの司法試験湖への放流を止めさせる大義名分は完全に失われてしまいます。

 

予備試験組は、いわば「点の論理」だけで戦っている人たちです。

「線の論理」を旨とするロースクール組混ぜてしまってよい(大丈夫)とは到底思えません。

 

「卓球もテニスも両方大事」という制度趣旨の下で大量のテニスの練習を受け入れているロー生を、24時間卓球している「卓球マシーン」と同じ台の上で戦わせたらどうなるか。

子どもにだって分かります。

 

結果、ロー生たちは、ブラックバスに食われ、また食われ、数を減らし、そして最後には、(件の淡水魚たちがそうであったように)環境に適応するべく自らを進化させることになるでしょう。

 

もちろん、この場合の「進化」というのは、ハンデ(ロースクール)を背負ったまま、なぜだか知らないが淡水魚がブラックバスに勝てるようになる、などといった甘い話であるはずはありません。

環境(司法試験)に最適化する方向で自らを鍛えてきたブラックバス(予備試験組)と五分に渡り合えるよう変化するとは、すなわち、何らかの形でハンデの部分が実質的に消えるということです。

 

ハンデの消し方はいろいろあるでしょうが、その端的な例は、ロースクールの消滅でしょう。

 

ローを存続させたままにしてくれ、ということであれば、他にも、「学生たちがローの講義を完全無視する」とか、「講義に出席しなくても単位が貰えるようになる」(要は昔の大学に戻る)とか、色々考えられることはあります。

 

でも、一番魅力的な選択肢はもちろん、ロースクールの完全予備校化でしょうか(^∇^)

 

・・・と、冗談はさておき、同じ土俵に乗ったら、理の当然に負けますよ、ということだけは、(老婆心ながら)あらかじめ申し上げておきたいです。

 

私自身は、どっちでもいいので、はやく勝負を決めてください、としか言いようがありません。。