いつの頃からか、「生きづらさ」という言葉が、当たり前のように使われるようになって、
その言葉から、ある一定の「生きづらい」層っていうのが導き出されるようになったように思う。
その層に入れる人たちは、今のこのいろいろと問題のある社会の「被害者」として、
訳知り顔のマスコミや「専門家」やジャーナリストに、同情的に描かれて、
一方で、今のこのいろいろと問題のある社会の「勝ち組」からは、「負け組」と見下されている。
でも、世の中、奇特な人がいるわけで、そういう一定の「生きづらさ」を抱えた層を助け出そうと、
いろいろな活動をして、それがまた、マスコミや「専門家」や…に評価されたりする。
言い古された言語論的発想によれば、「名前」は区別のために付けられる。
今、社会的排除ということにいろんな業界が注目していて、
「生きづらさ」というのは、とかく、社会的排除によって生じた感覚だとされる。
社会的にいろいろなものから「排除」された層=「生きづらい」人=包摂すべき人、みたいな。
ただ、「名づけ」という行為は、世の中にある雑多な、ある意味、本質的な差なんてなくて、相対的な違いしかないものの一部を区切ったり、抽出したりすることに意味があるわけで、
「排除されて生きづらい層」というカテゴリーが、マスコミなり「専門家」によって作られることで、
そこから「排除される」生きづらさを感じる人を作り出していることになってると思えてしまう。
今の世の中、いわゆる「生きづらい」層に当てはまらなくても、「生きづらい」人ってたくさんいると思うし、
それって、ある意味、昔からそうだったのかなとも思う。
それをあえて、誰かが何かの目的で、「社会のひずみのせいで苦しんでいるかわいそうな人」としての「生きづらい」層と、「自己責任で苦しんでいるだけの層」に分断する。
昔は、「若者」=無条件で後者、だったのが、今は若者であってもワーキングプアとかいろんな問題があるから前者に属する若者もいるんだ、
みたいな見なしがされるようになったのは、近年の社会の変化だと思うし、それを特に悪いこととは思わない。
ただ、それでも尚、そういった「名付けの分断」によって、現在の「生きづらい層」にも入れてもらえない、「生きづらさ」を抱えている人というのは、絶対にいると思う。
だからね、思うんです。
なんでみんなが「生きづらい」かと言ったら、それは、「生きづらさ」さえ誰かがコード化してるからなんだ、と。
つらい、苦しい、しんどい・・・って感覚くらい、定義とか社会的意味とかを伴わせずに、勝手に主張させて欲しいのに、それを許さない何かがあるからなんだ、と。
いわば、今の社会は、ある意味、誰しも感じていいはずの「生きづらさ」という感覚に、
「公認」と「非公認」という二つのカテゴリーを設けているようなものだと思う。
そして、「公認」の側を、いわゆる社会的排除の状況にある人に限定した場合、
その「生」というのは、多くの場合、「生存権」を無視されていると言わざるを得ない苛酷なものである半面、
「非公認」の側で「生きづらさ」を感じたら、「あなたは社会的排除されてないでしょ?だから自己責任」という具合で、
結局、どちらに転んでもいいことはない。
だからこそ、「公認」組と「非公認」組の間に、対立や差別や、更には「排除」が生まれることになる。
なので、せめて、「生きづらさ」という概念くらい、全ての人がフリーダウンロードできるようにしておこうよ、と言いたい。
そうしたら、みんな、もう少し、他人の「生きづらさ」に目を向けるようになって、それが長い目で見たら、インクルージョンになるように思う。
というわけなので、とりあえず、何かの縁でこの駄文を目にして、貴重な時間を無駄に費消してしまった方に、私から一言。
たとえ、今、どんな立場、状況にあっても、「生きづらい」なら「生きづらい」と思えばいいんです!
あ、私、別に、あやしい人じゃありません!ホントに。
ただ、自分自身が「あなた、別に生きづらくなることなくない?」みたいに、周囲から思われることが多くて、
「そうは言っても、いろいろつらいのになんで分かってくれないの?」って荒れていた時期が、すごく長いので(現在完了進行形的に)、
その中で想った事を、つれづれなるままに書き連ねたというだけです。
おしまい。