甲子園での決勝 日本文理vs中京大中京
野球観戦で感動したことなどない。
しかし、今年の甲子園の決勝ー日本文理対中京大中京は別だ。
かつてなく、おそらく今後もないであろう試合だった。
よく言われる、単に「野球は9回2アウトから」とも違う。
神が降臨したのかもしれない。
日本一を賭けて死力を尽くすのだが、しかしなお、勝ち負けを超越する何かがあった。
たいていなら、決勝で負けたチームには悔しさがあるものだが、負けたチームの顔は清清しかった。
逆に、勝ったチームは青ざめた表情。
一つでも違っていたら、このドラマは成り立たなかった。日本文理が勝ってもダメだ。
10対4の大差。9回表、2アウト、ランナーなし。
もはや、勝負は決したと誰の目にも写っていただろう。しかし、そこから誰もが予想しなかった信じがたい追い上げ。
ついに10対9。ランナーは一塁、三塁。一打で同点、あるいは逆転。
仮に日本文理が逆転して、そのまま逃げ切って優勝でもしたら、まさしく奇跡だが、これほどまでの感動はなかっただろう。なぜなら、そこには、従来通りの単なる勝ち負けしかないから。少なくとも、中京大中京の選手は、立ち直れないほどの深手の傷を負ったはずだ。敗者(2番手)の美学のようなものもある。
逆転ではなく同点になったときや、逆転しても逃げ切れないで、裏でサヨナラになったとしたら、これほどの感動はなかったはずだ。ありきたりの「よくやった」ぐらいのものだろう。延長に入っても同様だ。必ず、どちらかに悔しさが残る。
まさしくあの場面で終わらなければならなかった。しかもあの終わり方で。あれがボテボテのゴロやフライだとしたら、あそこまで追い上げたとしても、ピリッとしたものが欠けるものになっていた。
痛烈な当たりの3塁ライナーが最後を締めくくった。
あの瞬間、日本文理側は、抜けたと思ったことだろう。反対に、中京側は、やられたと思ったに違いない。
しかし、それは一瞬だった。次の瞬間には、その思いは入れ替わっていた。
わずかに右や左にずれていたらという思いもあるだろう。しかし、逆に、少しでもズレていたら、このドラマは成立しなかった。さらに、それを言うなら、4番がファウルフライを打ち上げてしまったとき、誰もが終わったと思った。しかし、キャッチすることができなかった。上空では不規則な風が吹いていたらしい。
みんなの思いとは反対の方向に持っていく。見えざる力が働いていたのか。
この試合で、最初に述べたように、勝ちも負けも超越し、敵も味方もなく、甲子園全体が一つになったように思う。
甲子園では禁則事項になっている個人選手をコールする(それは伊藤選手がバッターボックスに立ったときに起こった)ことが、、文理側に限らず、スタンドの観衆全体に自然発生的に沸き起こったように。
もしかしたら、中京側にも伊藤コールをしたものがいるかもしれない。
優勝したのは中京だったが、真に甲子園を制したのは日本文理かもしれない。