熟年離婚続き | DRAGON

熟年離婚続き

安井忠郎、60代後半。多くの同年代は引退している年齢であるが、彼は今もバリバリの現役である。職業は行政書士で、年収は数千万円。本業の他にも趣味がたくさんあり、精力的に活動している。そのせいであろうか、実年齢よりずっと若く見える。せいぜい50前後ぐらいにしか見えない。20歳年下の妻がいるが、傍目から見ても年齢差は全く感じない。 

今でこそ充実している安井であるが、若い頃は恵まれなかった。周囲からは軽く見られほとんど相手にもされなかった。夢はことごとく敗れ去れ、いくつもの会社に勤めるものの、どこも長続きはしなかった。一念発起し、行政書士の資格を取得するものの、弁護士や司法書士、税理士等から見下されてきた。しかし、腐ることなく誠実に仕事に取り組み続け、顧客から多大の信頼を得るまでになった。下手な弁護士等よりはるかに頼りになるとの評判だった。

今日も彼の評判を聞きつけ、ある婦人の依頼者が彼のもとを突然、訪れた。安井は彼女を事務所に招きいれ、まず、お互い、軽い自己紹介から始めた。しかし、開口一番、安井を衝撃が襲った。

なんと、歯が青い

一瞬、引いてしまったが、そんなことはおくびにも出してはいけない。平静を装いながらも紹介をし合った。彼女の名は谷下智恵、主婦である。女性に年齢を聞くのは失礼であると思い、あえて聞かなかったが、どう見ても自分よりは若くはないようだった。70代半ばといったところだろうか。

安井は婦人を椅子に座らせ自分も腰かけると、依頼の件について聞き始めた。

「どうなされました。」

「実は」と彼女は話し始めた。

それにしても歯が青い、と安井は思った。

別に全部が青いというわけではなく、前の方の歯が青いのだった。

「実は、主人と離婚しようと思いまして。」

「なぜなんだ。」と彼は思った。何故、歯が青いんだ。歯が青いのもさることながら、そのことが妙に引っかかるのが自分でも腑に落ちなかった。

「どうしてです。は・・・いえ、離婚されたいのは。どうかお話しになって下さい。お伺いします。」

「すぐに暴力を振るうんです。髪の毛を掴んで引きずり回し、殴る蹴るんです。しかも、平手ではなくて、こぶしでです。見て下さい、昨日も殴られて。顔に青あざができているでしょう。お恥ずかしい話ですが。」

それで歯も青いのか、と合点がいきかけたが、すぐにそんなはずはないことに気がついた。

「言葉の暴力も酷いんです。お前なんか、なんのとりえもないとよく言われますし。誰のおかげで飯が食えるだ、文句があるんだったら出て行けとも言われます。本当に私が出て行ったら何もできないくせに。」

「ワルですね。」

「そうなんです。でも、もともと、そういうところに惹かれたっていうのもあるんです。」

「少し不良っぽくて暴力的で強引で、それがワイルドで男っぽいと思っていたわけですね。」

「そうなんです。同級生のそんなカレに惹かれたんです。」

「私のカレって男らしいのよ。この間なんか、映画に誘われて、どうしようかと迷っていたら、つべこべ言わずに黙ってついてくればいいんだよといって、蹴られたのよ。」

「ワイルドでカッコイイ!」

そんなやりとりを友人としていた若い頃を智恵は思い出していた。

安井も若い頃を思い出していた。もちろん、さえない安井がそんなことを言われる対象などではなく、そういったやりとりを傍で見聞きしていたことを思い出していたのだが。

「若い頃は悲惨だったなあ、誰からも相手にされなかったし。」

あんまり女に飢えていたから、といって周りには女がいなかったから、つい見境なく、かつてバイトをしていた塾で教えていた生徒に、卒業してから2年ほど経った頃、電話をしてしまった。あわよくば誘ってやろうと。

 そのとき、電話して最初に出たのは、お母さんであった。名前を告げ、その娘に代わってもらった。ところが、相手は、最初、自分が誰だか分からない様子だった。すっかり忘れていたのだ。

「あの、安井ですけど」

「やす・・?あっ、なんだ安田君。」と打ち解けたようなフレンドリーな声が返ってきた。

急にパッと明るい声が返ってきたことに、一瞬、心が晴れやかになった気がした。しかし、名前が少し違う。それに君づけである。とまどいながらも、もう一度、名前を言った。

「やすいですけど」

「やすい?安田君じゃなくて」

相手は分からないようだった。そこで、塾の講師であったこと、そのときのエピソードを話すと、ようやく思い出してくれた。しかし、声のトーンは急に変わった。

「ええええ~!」 

「いや、どうしているのかなと思って。学校の成績はどう。」

「ビリから数えた方が早いし、学校の先生からもどうにかしろと言われているし。」

「進路はどうするの」

「まだ、決まってないし。」

「看護婦になりたいとかいっていたじゃない」

「そうだったけ」

「それにしても、しばらくしたら話し方とか全然かわったね。」

智恵はうざったそうに、切り返した。

「どうして電話なんかしてきたんですか。」

「久しぶりだなと思って。」言い訳がましく言ったが、彼女は見抜いていた。

「ところで何才なんですか。」

いい年をして分不相応だと言いたいのだ。それに対して黙っていたが、その後、なんとか取繕うのに精一杯であった。

「それではお元気で。頑張って下さい。」早く彼女は電話を切りたかった。

「ありがとう。それでは。」

苦虫を噛んだような後味の悪さが残ったのだった。青汁どころではなかったな。

「そうだ。思い出した。」安井は心の中で叫んだ。「佐藤智恵だ。あれも歯が青かった。名前も同じ智恵だ。偶然だ。・・・いや、まさか、本人では?そんなはずはない。年だって違うし。しかし、顔つきはなんとなく似ている。」

「あの聞いてます?」

安井は我に返った。

「いや、失敬。」

「主人も来年、定年になりますし、年金分割できるようになってから離婚しようと思っているのですが、どうでしょう。」

さっき、夫とは同級生と言ったが、すると、59歳か。ええっと・・・、頭の中で計算し、佐藤智恵と同じ年齢であることが判明した。それにしてもこの老けようはどうだ。

「離婚されたら、旧姓に戻られるのですか。」

「はい、谷下なんて名、二度と使いたくありません。」

いずれ分かることであるが、旧姓を尋ねた。彼女は佐藤であると答えた。

「やはり、間違いない」安井は確信した。

「ご存知かと思いますが、訴訟性のある案件は行政書士では取り扱えません。協議離婚でよろしいでしょうか。」

「はい。そのつもりでお伺いしました。費用も安くつきますし。」

「実は、最近、熟年離婚が急増していましてね。9割が協議離婚なんですよ。ところで、すいませんが、次の依頼者の予約が入っていまして。次回はもっとゆっくりお話とお伺いしたいと思います。全て法律で解決するわけではありませんから、ゆっくりお話を聞くのも我々の仕事なんですよ。」

そう言って、次回の予約を入れた。

「お元気で。」安井は別れの挨拶をした。

安井は、つい、呟いた。

「商売繁盛なのは、馬鹿が増えているせいかな。」