常識を書く場合の最低限の配慮(さんま御殿の風呂水使うな発言より) | 作家養成塾『遊房』の公式ブログ 「めざせ!公募小説新人賞」門座右京監修

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ずいぶん昔だと思いますが、風呂水を洗濯に使うな。といういいかたが、さんま御殿というバラエティ番組であり、一時期物議をかもしたことがあります。

たぶん今でもその書き込み記録が探せばあるように思います。

そのときの明石家さんまのいいかたは、風呂の残り湯で洗濯物洗うなよ。というものでした。
ネット上の書き込みでは、さんまは金持ちだから、そういうことを平気で言う。云々という意見が大勢で、彼のいいかたを借りるなら、洗濯物ぐらい新しい水で洗えるように、金稼いだらどうや。ということで、わからなくもありません。

さて、これは明石家さんまという芸人を糾弾する意味でも難でもなく、つい口を出る自分自身の常識というものが、ときとしてその人の生活してきた、いわゆる生き様に則っているという意味で、安易に常識論を振りかざす書き方はしない方がいいですよ。ということを、少し学んでいただきたいのです。

たとえば私、銭湯経営を祖父がやっておりました。
水を沸かして湯にするわけですから、水と火の神様は必ず浴室と釜場に祀られていました。

使っていた水は井戸水で、まさしく売るほどあったわけで、かつ、掘削費を考えてもとうにもとは取っている状態ですから、洗濯物はその井戸水を使えば何の問題もありませんでしたが、祖父は洗濯は必ず風呂の残り湯を使えといいました。

家庭風呂でいえば、家族の汗の流れ込んだ風呂の残り湯で洗うと、洗濯物を洗ったことにならない。というのが、さんまの言い分なのでしょう。
その論法でいうと、銭湯の残り湯は、何百人も使った残り湯で、ばい菌だらけの湯ということになります。

もちろん、濾過装置がありましたから、仕舞い湯でも透き通ったきれいな湯でしたし、汚いという感じはありませんでしたが、さんまの論法からいえば、とんでもないことになってしまいます。

洗濯物の水ぐらい稼げよ。
という明石家さんまの洗濯の水は、我が家では稼がせていただいている水であり、その水で飯を食わせてもらっている。感謝して使え。というのが祖父の論法です。

我が家は水と火で食べさせてもらっているのだから、その水と火に感謝せよ。という、今度はこちらも論法でいうと、さんまはシャベクリで飯を食わせてもらっているなら、もっとことばに対して謙虚に、感謝して使え。ということになりますね。

何度もいいまずが、常識というのは、あたかもそれが大義名分であり、正義の旗印のように錯覚しがちですが、そのみなさんの常識は、みなさんの持って生まれた環境や、境遇などが基盤になっていることが多いということ。
すなわち常識は、すべての常識ではないということを感じていただきたいのです。

我が家では妻が風呂の残り湯で洗濯物を洗います。
延長ポンプで、浴室から洗濯槽に湯水を移すには、電気代がかかります。
むしろ水代よりポンプでくみ上げる電気代の方が高いかもしれません。

が、そうしなければいけないのは、彼女もまた、貧者の一灯で毎月ユニセフに、1000円とか2000円をやりくりして寄付しているのですが、世界には洗濯する水さえない地域があることを、彼女なりに知っていて、今の境遇に感謝の気持を忘れない姿勢がさせているわけです。

常識を誰かに押し付けてはいけません。
それはその人の生き方を否定しているのと同じだからです。

みなさんの作品に、常識という名の非常識を書いていませんか?