二代目中村吉右衛門追悼 昭和23年6月 東京劇場 吉右衛門の初舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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皆様ご存知の通り11月28日、二代目中村吉右衛門が77歳で逝去しました。今回は彼への追悼という事で特別にこの筋書(劇場案内)を紹介したいと思います。

 

昭和23年6月 東京劇場

 

演目:

昼の部

一、菅原伝授手習鑑

二、一谷嫩軍記

三、御存俎板長兵衛

 

夜の部

一、大森彦七

二、ひらかな盛衰記

三、本藏下屋敷

四、勢獅子

 

今回紹介するのは厳密に言うと筋書では無く東京劇場が筋書とは別に発行していた東劇という冊子になります。

とは言え、演目紹介や解説なども付いていて筋書とも遜色ない出来栄えでオマケに舞台写真もふんだんに散りばめられる等、戦後間もない時期にも関わらず豪華な仕様となっています。

本題に入る前に少し説明するとこの昭和23年の年は以下の様になっていました。


・東京で現存していた歌舞伎が出来る大劇場はほぼ東京劇場のみ(帝国劇場はGHQに接収済)


・この年の3月18日に三代目中村梅玉が死去したのでこの時点で存命していた主な幹部役者は


七代目松本幸四郎(78歳)


七代目澤村宗十郎(72歳)


二代目實川延若(71歳)


七代目坂東三津五郎(66歳)


六代目尾上菊五郎(63歳)


初代中村吉右衛門(62歳)


三代目阪東壽三郎(62歳)


三代目中村時蔵(53歳)


六代目市川壽美蔵(52歳)


二代目市川猿之助(50歳)


となっていました。


さて、戦後間もない昭和23年6月の東京劇場で二代目吉右衛門は中村萬之助の名跡で初舞台を踏みました。

既に2年前に一足早く初舞台を済ませていた兄二代目金太郎に続いて初舞台となった彼は既に晩年に差し掛かっていた祖父である初代中村吉右衛門にとって待望の跡継ぎでした。その為、彼の初舞台には吉右衛門の威光もありまだ存命していた父方の祖父である七代目松本幸四郎を始め、伯父の海老蔵(十一代目團十郎)、実父の染五郎(初代白鸚)、叔父の松緑と友右衛門(四代目雀右衛門)、大叔父の中村もしほ(十七代目勘三郎)といった高麗屋、播磨屋双方の身内が勢揃いした他、菊五郎を除く菊五郎劇団と吉右衛門劇団も総出演するというこれ以上にない贅沢な環境での初舞台となりました。

 

裏表紙は二代目吉右衛門の父方の祖父である七代目幸四郎の絵

 
主な出演者一覧
この中で存命しているのは今や当代白鸚と中村嘉葎雄、当代菊五郎、当代左團次の4名のみ
 
吉右衛門は計7演目の中で昼の部の御存俎板長兵衛と夜の部のひらかな盛衰記の2演目に出演しました。
 
御存俎板長兵衛
 
まず最初の御存俎板長兵衛では初代吉右衛門演じる長兵衛の息子である一子長松での出演となりました。
因みにこの演目では以前にブログで紹介した様に大叔父のもしほもこの演目で初舞台を踏んでいます。
 
もしほの初舞台の時の筋書

 

この時は播随長兵衛を初代吉右衛門、寺西閑心を幸四郎、白井権八をもしほ、長兵衛女房おときを芝翫(六代目歌右衛門)、三浦屋女房お福を多賀之丞がそれぞれ務めています。

 

二代目吉右衛門(萬之助)の一子長松(中央)

 
さて、この時の様子について吉右衛門自身は後年
 
黙阿弥の名作で、初代の長兵衛を相手に私が長松で初舞台を勤めた演目でもあります。初代が私を見下ろして涙を流す子別れの場面では、本当に涙と唾がかかってきたのを覚えています」(歌舞伎美人より抜粋)
長松の方は顔を真っ白に塗り、肝のすわったところを見せ、「だれだと思う、えー、つがもねぇ」とタンカを切る。お客様が拍手してくれるし、気持ちのいい役なので、喜んでやっていましたね。」(語る 人生の贈りもの より抜粋)
と語っていて啖呵を切る気持ちよさと初代の気迫溢れる演技は記憶に残っていたそうです。ただ、本人は覚えていないと証言していますがこの演目の途中で劇中口上があり、初代吉右衛門が「養子にして二代目を継がせます」と述べたそうですが、当時3歳の吉右衛門にとってはこの口上が至極退屈(笑)だったらしく、
 
あぐらをかかせてもらっていましたが、ふと下を向くと赤いふんどしが目に入った。垂れている部分を引きずり出し、アイロンをかけるように手でしわをのばしていたら、客からじわじわと笑いが起きました。」(語る 人生の贈りもの より抜粋)
 
と遊んでしまったらしく真面目に口上を述べる初代吉右衛門と遊んでいる彼のギャップに見物も思わず笑ってしまい訝しる初代吉右衛門は周囲の人に訳を尋ねたそうですが真実が露呈し3歳児の吉右衛門に雷が落ちるのを恐れて周囲の人も本当の事を言えなかったと後から吉右衛門は聞かされたと言っています。
 
ひらかな盛衰記
 
二代目吉右衛門(萬之助)の駒若(左)
 
このひらかな盛衰記の駒若の記憶はというと、
 
初代の樋口が、血だらけの顔で、『若様』、という思いで槌松をぐっと見る。それが怖かったんでしょう。化粧をし始めると泣き出してしまい、初舞台をやめさせられました。前代未聞。よくここまでやってこられたなあと思います」(歌舞伎美人より抜粋)
 
と初舞台であるにも関わらず、泣いてしまって使い物にならず初代の怒りを買ってクビになってしまった(笑)という思い出を語っています。
 
スチール写真に残る初代吉右衛門の樋口と吉右衛門の駒若
 
この様に吉右衛門にとっては少々ほろ苦い(?)初舞台となった様ですが、当の初代吉右衛門はと言うと当代白鸚の初舞台の際にも普段なら断る意休役を孫との共演を出汁に使われたとはいえ受けて舞台口上では好々爺の素顔を隠していなかった事は有名ですが、この時もひらかな盛衰記でこそ泣き止まない吉右衛門に雷を落としたものの、それ以外は可愛い孫の晴れの場という事もあって同じ祖父である幸四郎共々元気一杯に舞台を勤めて始終ご機嫌だったそうです。
 
この初舞台から実に74年にもの長きに渡って活躍してきた吉右衛門は先月とうとう初代のいる黄泉の国へと旅立ちました。
はっきり言って彼の人生はその殆ど全てが偉大過ぎる初代吉右衛門の幻影との戦いと言っても差し支えなく、本人が語っていた様に若い頃はガス管を咥えたり、薬の大量服用による自殺未遂にまで追い込まれた程過酷な物でした。
ただ、その苦渋や忍耐を耐え忍んだ日々は初代は異なる重厚さと写実を兼ね備えた初代のコピーではない二代目吉右衛門としての芸風を作り上げ私が見た晩年は見事に芸の花が咲き乱れていました。
私が直接目にした5年間では全ての演目を見れた訳では決してありませんが常に吉右衛門の出ている演目は1つでも多く観ようと思う程その芸は引き付けて止まない物でした。
長い間本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。