価値観の違い | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

「ニート」と呼ばれる人たちがいます。

 

就学もせず、

働いてもいない人たちです。

 

引きこもっているわけではないですが

働いていないので、

怠けているようにも見られがちで、

 

本人は後ろめたい気持ちで

いるのではないでしょうか。

 

 

貯金を取り崩していると

目減りが気になり、

親のすねをかじっていると

引け目を感じるでしょう。

 

自分でお金を稼いでいないことによる

マイナスの感情です。

 

 

それともう一つは、

 

世の中で役に立っていないと

肩身の狭い思いもしていると思います。

 

こちらのほうが大きいかもしれません。

 

 

これを解消するには働くことですが、

アルバイトなど不定期だと

 

また「フリーター」と呼ばれ、

ニートの同類のような扱いのままです。

 

会社に入社などして

「正規に」勤めに出るようになって、

ようやく脱出できます。

 

そうすれば安定した収入があり、

すべてがうまくいきます。

 

お金も入ってくるし、

社会の一員としての責任も果たしている

感覚を持てます。

 

資本主義の現代では、これで

「まともな」社会人です。

 

 

勤めに出て組織の中での役割を果たす

のが仕事ですが、普通は

自分のやりたいことではありません。

 

それで充実した日を過ごすのには

無理があるでしょう。

 

やりたいことは週末の休日にやり、

それまでの大半の時間は

我慢して義務を果たす。

 

これに違和感を覚えないのが

「まともな」人です。

 

空虚な人間が

まともな人間。

 

空虚な社会・・・

 

 

 

 

これと対極にあるのが

縄文人だと思います。

 

縄文時代に貨幣はなかったようです。

もちろん「経済」の観念は

なかったでしょう。

 

精巧に作られた大きな縄文土器

見ていると、縄文人が

何を想いながら土器を作っていたのか

といつも考えさせられます。

 

機能的には必要のない

装飾に溢れています。

 

 

 

釈迦堂遺跡の水煙文土器ですが、

丸く開いている穴は立体的で

中は空洞になっています。

 

それがいくつもあり、

いちいち空洞に仕上げるのは

大変な手間だったはずです。

 

壺として使うには

必要ない飾りなのに。

 

 

彼らはやりたいからやっていた

だけのような気がします。

 

自分の世界に生きていた

のではないでしょうか。

 

自己表現に没頭していた。

みんなが芸術家だったかのようです。

 

精神性・霊性を形に表していた

ように思うのです。

 

通勤がなく拘束される時間もなく、

好きなことをして

充実した毎日を送っていた

のではないでしょうか。

 

 

精神的に満たされていれば、

他と争うこともありません。

 

平和が保たれます。

 

 

 

げにも価値観の違いとは

恐ろしいものです。

 

私も会社勤めをしていた頃は、

勤めていることで精神の安定を

得ていたように思います。

 

ニートのほうが、本当は、

「まとも」なのかもしれません。