アメリカ軍の督戦部隊と焚書 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

前大戦の時代に「督戦隊」という存在が

あったことを最近知りました。

 

まずは、中国から。

 

『1937年。日中戦争の最中...

 

上海での戦いに勝利した日本軍は、いよいよ

中国の首都・南京へ押し寄せようとしていた。

 

そんな状況の中、首都・南京では一人の男が

「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」

 

と徹底抗戦を叫んだ。

 

当時、南京城の司令官であった

唐生智(とう せいち)という人物である。

 

司令官として、この南京を死守するというのだ...

しかしその後、この南京で悲劇が起こる...

 

押し寄せる日本軍に怖気づいたのか...

この唐生智は南京戦の直前に自分の部下のみを連れ、

 

これから戦火に包まれるであろう南京から

こっそり逃亡を図ったのだ。

 

当然だが、中国軍は大混乱に陥った。…

中国兵は退却を開始した..

 

しかし、司令官を失った中国兵たちの悲劇は

ここからだった。

 

敗走する兵士たちに銃の照準を定め、

彼らを次々に撃ち殺す謎の部隊がいたからだ。

 

中国兵はバタバタと倒れていき

死体の山が築かれていった。

 

もちろんこの部隊は日本軍ではない...

 

実はこれは中国軍の部隊だったのだ。

この部隊は督戦隊とよばれる部隊だ。…

 

その任務は兵士の敵前逃亡を防ぐこと。

自軍の部隊を背後から監視し、

 

命令なき退却を阻止する部隊。

戦闘を継続させるためならば、

 

敗走する自軍の兵士を

容赦なく攻撃し殺害したのだ...』

 

(NEW HISTORY(ダイレクト出版)メルマガ 2021/12/23より) 

 

これが「南京大虐殺」の始まり

だったのかもしれません。

 

 

この「督戦隊」については、ソビエト軍にも存在していた

ことを少し前に知りました。

 

「ベルリン市街戦の凄絶さ」についての文章です。

 

『独ソ戦の前線でソ連軍が

いかなる戦い方をしていたか、

 

あるドイツ人兵士の残した

衝撃の記録を紹介しよう。

 

「ロシア兵の列は、われわれの連隊の戦列の

前方で左右に広がり、

 

いくらわれわれが鉄砲で撃っても、

全員が大波のごとく、ゆっくりと、

 

しかし確実に前進してきた。

 

彼らは信じられないほど理想的な、

機関銃の標的だった。

 

六00メートルまで接近してきた彼らに向けて発砲し、

それにより最初の敵の分隊の一団は全滅した。

 

しかしそこかしこで、生存者が

そのままひるむことなく前進してきた。

 

それはこの世の光景とは信じがたく、

非人間的という以外、言葉を知らない。…

 

われわれの機関銃が連続射撃によって

オーバーヒートしても、

 

ソ連軍はあとからあとから

兵士を送りこんできた。

 

倒れた彼らの誰一人として

担架で運ばれなかった。

 

敵のこのような攻め方はわれわれを疲労困憊させ、

無感覚にし、最後はわれわれを

 

精神的な恐怖で滅入らせてしまった。

 

われわれはこれまで経験したことのない、

異質の敵と戦っていたのだ」

 

ドイツ兵を精神的な恐怖で滅入らせた、

これらソ連軍兵士の背後には

 

「阻止部隊」が控えていて、

退却しようとする味方の兵士を

 

機関銃で撃ち殺していたのである』

 

(堀井雄三著 PHP文庫 『世界最強だった日本陸軍』初版226~227ページ) 

 

確かに、いくら撃っても撃っても

ゾンビのごとく次々に湧き出てきたら

 

薄気味悪いですね。

 

それにしても、進むも地獄、後退するも地獄、

前線兵士の境遇は哀れです。

 

ソ連歩兵の数が機関銃の能力を上回った

とも言えるでしょう、

 

ベルリンは陥落します。

 

 

この督戦隊が、何とあの

アメリカ軍にも存在していたことが判明しました。

 

 

開戦翌年の6月に、フィリピン駐在の米軍は

日本軍と戦って降伏し、

 

多数のアメリカ人とフィリピン人兵士が捕虜となります。

 

『やがて、奇妙な捕虜の一団に眼をとめられた。

 

十人ほどの比島兵が一人の米将校を縛し、

こづきまわしながら、近づいて来るのであった。

 

大兵のその米将校は大尉の肩章をつけていたが、

不愉快そうに渋面をつくっていた。

 

ちょび髭を生やした先頭の比島兵は、

これは米兵の督戦隊長ですといった。

 

それから、独りごとのようにぶつぶつと、

こいつがわれわれを前線に出して、

 

うしろから督戦するので、われわれは

仕方なく戦わねばならなかった、

 

われわれが食うや食わずであっても、

こいつはちっとも同情してくれん、

 

こんなものも、と、督戦隊長のポケットから

携帯口糧の缶詰をひきだし、

 

自分たちばかりで食っていて、

われわれにはいっぺんもくれたことがない。

 

そういいながら、その缶詰をこじあけ、

仇討のようにむしゃむしゃと食べはじめた。』 

 

この文章は、フィリピン攻略戦に従軍した作家、

火野葦平の『バタアン半島総攻撃従軍記』

 

の中のものです。

 

帰国してすぐに出版されましたが、

GHQによって没収され焚書となりました。

 

3年前に経営科学出版から復刻された

第二刷の129~130ページに出てきます。

 

 

フィリピン人兵士を危険な前線に配置して、

背後から監視・督戦していたのです。

 

中国やソ連のように退却する兵士を後ろから

撃ち殺したというハッキリとした証言はありませんが、

 

それを匂わせる日本兵の話が載っていました。

 

『こちらが少しも動かないのに、

敵線内で射撃が起る。

 

逃亡兵を射っているらしい。』

 

(同上 12~13ページ) 

 

 

アメリカ軍人の非人道的な、

不名誉なことがたくさん出てくるこの本は、

 

真っ先に焚書リストに上ったことでしょう。

 

 

 

(中国、ソ連、アメリカとこうして見てくると、大陸文明には、

「督戦隊」が普通に存在するもののようです)

 

 

アメリカは戦後に「バターン死の行進」と題し、

日本軍の“残虐行為”を喧伝しました。

 

 

Wikipediaによると、

 

『第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、

バターン半島で日本軍に投降した

 

アメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、

捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。

 

全長は120kmで、もともとはその半分弱は

鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、

 

計画を立てた当初の捕虜の予想数と、

実際の捕虜の数に大きく違いがあり、

 

結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを

難民と捕虜と監視の日本兵が歩いた。…

 

日本側の2万5千名との捕虜数予想を大きく上回る

約7万6千名もの多数が捕虜となった…』 

 

捕虜が多すぎて、

徒歩で移動するほかなかったようです。

 

日本の軍人には日常的だった行軍も、

慣れていない米軍人には

 

生命に関わる苦難だったのかもしれません。

 

 

それはともかく、

 

日本軍の非道をまくし立てるために、

自分たちの非道ぶりを暴露している

 

この従軍記の存在を許さなかったということです。

 

 

 

 

 

 

 

『“縄文の蘇り”連続講座第四回』

3回開催します。

 

タイトルは

「すべての常識をぶち壊して、“縄文の蘇り“へ」 

 

縄文のこころを取り戻すには、

その上に何層にも積み重なって重くのしかかっている、

 

”集合意識に毒された余計な社会常識“に

風穴を開ける必要があります。

 

①戦後の毒を含んでいる常識 

②開国後に入ってきた西洋思想 

③弥生以降の東洋的価値観 

 

そこにメスを入れます。 

 

開催日:①2022年1月23日(日)
       ②2022年1月29日(土)
       ③2022年2月 6日(日)

開催時刻:13:30~16:00 

開催方法:ZOOMにて 

参加費:無料 

定員:各回8名様