古事記での“暴虐無道”な日本武尊 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

4/18開催予定のホツマツタヱ連続講座のテーマは

日本武尊です。

 

 

「日本武尊」は日本書紀の表記で、

古事記では「倭建命」となっています。

 

通常は「ヤマトタケル」と最後に「ル」がついていますが、

正しくは「ヤマトタケ」です。

 

明治時代に当時有力な歴史学者が、

「ヤマトタケ」の名を献上したのが「熊襲タケル」だったのだから、

 

「ヤマトタケ」ではなく「ヤマトタケル」でないとおかしい、

といい加減なことを言ったのが定着してしまったようです。

 

『古事記伝』を書いたあの本居宣長の古事記のテキストにも、

「ヤマトタケ」とふりがなが振ってあったそうです。

 

 

いつものように今回も、古事記・日本書紀を見てみたいと思います。

 

と言っても、日本書紀は一部に若干の違いがあるだけで、

ほとんどホツマツタヱと同じです。

 

それに対して古事記は、勝手な解釈や、

なかったような話もやたらと付け加えていて、

 

ひどいものです

 

 

まずは、双子の兄の裏切り行為について。

 

ヤマトタケは父・景行天皇の子で、双子の弟として生れました。

ホツマツタヱと日本書紀によりますと、ある時景行天皇は

 

美濃に美しい乙女(日本書紀では2人の少女)がいることを聞き、

その乙女を召し上げるために

 

ヤマトタケの双子の兄を遣わしましたが、

その兄は少女の美しさに惹かれて

 

自分のものにしてしまい、復命しなかった。

それで景行天皇はその兄を都に入れさせなかったそうです。

 

 

それに対して古事記では、兄は別の2人の少女を探し出して

偽りの姫たちを差し出したことになっています。

 

天皇はすぐに偽物であることを見抜きます。

見抜かれたことを知ったのでしょう、

 

バツの悪い兄は朝夕の食膳に

顔を出さなくなってしまいます。

 

そこで天皇は弟のヤマトタケに、

食膳に出てくるよう兄を説得せよと命じました。

 

何日たっても顔を出さないので天皇がヤマトタケに聞くと

ヤマトタケは、兄がトイレに入っているところを待ち伏せして、

 

出てきた兄を捕まえて手足をもぎ取り

コモに包んで投げ棄てたと答えた、ということにしています。

 

兄を説得せよと言われたのに、待ち伏せしていきなり

殺してしまうとは、常軌を逸しています。

 

これではヤマトタケはまともな人間ではありません。

手のつけられない極道者です。

 

 

ここから、天皇はヤマトタケの猛々しさを恐れたので

熊襲の討伐に向かわせた。

 

あえてヤマトタケを死ぬかもしれない危険なところに遣わした。

 

熊襲平定後帰ってきてすぐに今度は

東国討伐を命じられたヤマトタケは、

 

出かける前に伊勢にいる伯母の倭姫命のもとを訪れて、

父天皇は自分が死ねばいいと思って

 

東国に向かわせている、と言って泣くことになります。

 

 

勝手な解釈には目に余るものがあります。

まるでヤマトタケ(や景行天皇)に悪意があるかのようです。

 

この「悪意」について、次回考察してみたいと思います。

 

 

4月のホツマツタヱ連続講座の詳細とお申込みは

 

こちら ⇒ 4月のホツマツタヱ連続講座ご案内