「主体性」がなければ何も始まらない | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

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「主体性」がなければ、

何も始まらない。

 

ずっとそう思ってきました。

自分自身の問題として。

 

主体性を感じて生きたのは

二十歳のときの半年間だけでした。

 

主体性がなければ

「生きている」という実感がわきません。

 

何も始まらないまま、

自分の人生は終わってしまうのか。

 

あきらめかけましたが、

やはり、あきらめるなんてできません。

 

『7つの習慣』の第一が

「主体性を発揮する」なのも、

充分納得できます。

 

 

 

著者が、「成功」について200年間に

書かれた書物を調べたところ、

 

最初の150年間のものは

「人格主義」の特徴があった。

 

「誠実」「勤勉」などの徳目を

自分自身の人格に深く

内面化させようとしていた。

 

それに対して、近年50年間のものは、

表面的なテクニックを追い求める

「個性主義」のものが多かった。

 

それは、応急処置的であり、

対症療法的であり、

外部に対して反応的対応だった。

 

 

簡単に比較すると、

 

最初は、「人格主義」で内面的で主体的。

 

近年は、「個性主義」で表面的で反応的。

 

内側に向いていた視点が、

外側に向いてしまった。

 

人格主義は「基礎」づくりを行い、

個性主義は「応用」を工夫する。

 

「基礎」ができていて

「応用」を取り入れる

 

であれば、問題はないが、

「応用」だけを学んでいると、

 

「基礎」が必要なのがわからない。

基礎のない空中楼閣を築いてしまう

 

ということになり、成功には程遠い

悲惨な結果を招いてしまう。

 

 

それで、著者は

「人格主義」への回帰を志向しています。

 

人格主義という基礎づくりの

そのまた基礎が「主体性」です。

 

 

 

基礎ができていないうちに

その上に建物を建てるのは

不安定のもとです。

 

ですから、第一の習慣「主体性」が

確実に身についたと思えるまでは、

 

次章に進んではいけない

のかもしれませんね。