主体性を放棄する「よく使う言葉」に注意 | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

 

今日も『7つの習慣』の

「主体性」についてです。

 

 

思い返せば、『7つの習慣』は

数年前に一度読んだだけでした。

 

当時はまだ、「知識」を取り入れるための

読書でした。

 

厚い本を読み切ることに精一杯で、

読み終えたことに満足してました。

 

いいな、と思える箇所がたくさんあり、

マークされていましたが、

 

たくさんの本を読みたかったのでしょう、

多分、読み返すこともなく、

 

次の本に向かっていったのだと思います。

 

 

今回読み返してみて、この本の中に宿っている

エネルギーの大きさに驚いています。

 

また、最初に読んだときになぜ

そのエネルギーに気づけなかったのかと

残念に思います。

 

でも、悔やんでも仕方のないことで、

今回気づけただけでよしとしなければ

なりません。

 

そういう巡り合わせなのかもしれません。

 

 

 

今日は、普段からよく使うことがある

ちょっとした言葉遣いについてです。

 

それは、よく言い訳するときに使う

「ねばならない」という言葉。

 

 

たとえば、「練習に行かなければならないので

授業に出席できません」という言い訳。

 

本当のところは、練習と授業とを秤にかけて、

練習の方を取るという決断なのですが、

 

あなたの授業と、別の練習で、

別のものの方が重要だと判断したと言うと、

 

相手に対して失礼だとか、

または、単純に言いにくいので

 

そういう言い訳をするのですが、

実のところは、

 

「逃げ」です。

 

あなたよりも別の欲求を優先します

と正直には言いづらいので、

 

所属する別の団体の義務が大きいので、と

責任を他に転嫁しています。

 

両方に義務があって、どちらを優先するかは

本当は自分が選択して決めているのに

 

所属する別の団体に決定権があるように

「装って」います。

 

 

しかし、言葉は言霊、ことだまです。

 

「逃げ」で言ったことが、本当になってしまいます。

 

知らず知らずのうちに、

そういう意識になってしまいます。

 

決定権を他者に譲り渡しています。

 

そうしていると、自分が人生の

主人公ではなくなってしまいます。

 

みずから主体性を放棄しています。

 

それが当然の人生になってしまいます。


 

『反応的な言葉がなぜ重要な問題なのかというと、

それが心理学でいう

「自己達成予言」になるからである。

 

そういう言葉を使う人は、

決定づけられているというパラダイムを

さらに強く持つことになり、

 

その信念を支える証拠を

自分でつくり出すことになる。

 

ますます被害者意識に陥り、

生活のコントロールを失い、

 

自分の人生を自分でつくり出す能力を

失くしてしまうのだ。

 

そして自分の状況をすべて

外的な要因(他人、環境、星座に至るまで)

のせいにするのである。』

 

(~S・R・コヴィー著 キング・ベアー出版刊

 『7つの習慣』より~)