悟った人は「知っている」(エックハルト・トール) | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

-* 「言葉」は心をつくり、人を生かす *-

 

今日もエックハルト・トールの言葉を

取り上げます。

 

『思考を「本当の自分」とみなしていると、

レッテル、決めつけなどの「曇りガラス」

を通して世界を眺めます。

 

すると、すべてのものが歪んで見えるため、

万物と真の関係が

築けなくなってしまうのです。

 

「別々の衣をまとっている」

という見かけのレベルを超えた

 

「自分はすべてと一つである」

という根本的な事実をすっかり

「忘れて」しまっているのです。

 

この事実を「信じている」人は

大勢いるでしょう。

 

でも、これを当たり前のことだと

「知っている」人はわずかです。

 

信じることも慰めにはなるでしょうが、

知っていなければ心の底から

自由にはなれません。』

 

(~エックハルト・トール著 徳間書店刊 

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』より~)

 

 

目に見える物理世界では、

人は別々の個人という存在ですが、

 

霊的にはすべてとつながっていて、

「自分はすべてと一つである」

 

というのが真実のようですが、

 

私もまだ「そうらしい」と考えるだけで、

当たり前のことだと「知っている」

 

わけではありません。

 

「知っている」となった時が

「悟った」ということなのでしょう。

 

昨日の

「アブラハムが生まれる前に私はいる」

と語ったイエスの境地ですね。

 

 

本当の世界がどうなっているのか

の参考意見を聞いて理解を深め、

 

瞑想によってもそれに近づく。

 

そして悟って、それと一体化する。

 

 

そのうえで、「すべての根源」である

「大いなる存在」から

 

自分に割り当てられた

「無限のエネルギー」を

 

現実世界で思う存分に発揮する。

 

これが人間の生きる意味

なのではないかと考えています。

 

とんでもなく突拍子もないもの、

異常じゃないかというほどの

変わったこと、

 

であればあるほど、

 

個性的であればあるほど

 

生まれてきた甲斐があった

 

自分の役割を果たした

 

ということも言えるのでは

ないでしょうか。