時間は幻(エックハルト・トール) | “縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

“縄文の蘇り”&”ろくでもない世界”との決別

第一ステップ:戦後の常識の徹底的な破壊(GHQの洗脳解除)
第二ステップ:弥生以降の常識の破壊(大陸思想の廃棄)
第三ステップ:奥底に眠っている縄文人DNAの起動

-* 「言葉」は心をつくり、人を生かす *-

 

昨日につづき、エックハルト・トール

の言葉です。

 

『イエスは次のように言いました。

 

「アブラハムが生まれる前に私はいる」。

 

「時間の連続性」を否定しています。

この表現は禅の格言のように深遠です。

 

イエスは「在ること」とは何かをまわり道せず、

ずばり直接的に伝えようと試みたのです。

 

イエスは時間のない世界に生きていました。

この世界は永遠です。

 

「永遠」とは「終わりのないこと」

を意味しているのではありません。

 

「時間が存在しないこと」を

意味しているのです。』

 

(~エックハルト・トール著 徳間書店刊 

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』より~)

 

 

「アブラハムが生まれる前に私はいる」

というのは、確かに変です。

 

何千年も前にいて、

今もいる。

 

何千年も、

どころか、最初から

変わらずに

存在しつづけている。

 

そして、これからも

永遠に。

 

本当の自分は、

仮の肉体ではなく、

 

不滅の存在である。

 

それが、自分の本質。

 

それを頭で理解する

だけでなく、

 

不滅の存在そのものであることを

実感している、

 

ということだと思います。

 

これは凄いことです。

 

生きるも死ぬも大したことはない。

恐れるものは何もない。

 

無敵の境地ですね。

 

文明の消長、

国家の盛衰、

個人の生死、

 

永遠の存在からしたら、

すべては、人間が見ている

夢、幻にすぎない。

 

劇場で演じられる芝居

のようなものです。

 

本質にとっては、

自身を発現する諸現象です。

 

この文章を繰り返し読んでいると、

その感覚がわかるような

気がしてきました。

 

自分もイエスと同じような境地に

たどり着くことができると

思えてくるから不思議です。