言葉を扱っていると、言葉の難しさを痛感します。
ものを書くとき、会話をするとき。
まず言葉の多義性。
以前の職場で、ある外国人の方の諸手続きを担当したことがありました。
必要な書類に不備があるのだけど、よく話を聞いてみるとその書類は現状では手に入らないらしい。
手続きはどうしても必要で、総合的に考えて受理していい状況でした。
そこで私は(日本語で)「わかりました。不備はありますが、そのような状況では仕方がないので受理いたします」と言いました。
そしたらハンサムでスマートな外国人さんが烈火のごとく怒っちゃったんですね。
そのときはショックで何が何だか分からなかったんですが、どうやら私が言った「仕方ないので」という言葉を何らかの非難・嘲笑と受け取ってしまったようなのです。
「仕方がない」は「やりようがない」「やむおえない」という意味ですが、ニュアンスによっては「手に負えない」「始末が悪い」という意味にもなります(「仕方ないやつだな」とか)。
私が前者の意味で使った言葉が、後者の受け取られ方をしたというわけです。
一見単純な言葉にあるニュアンスが伴う他義がある場合、その取り違いから誤解が生まれるわけです。
次に、言葉が持つイメージの偏り。
私が翻訳をやらせていただいてる団体では「子供」「障害」という言葉が禁止されています。そのかわり「子ども」「障がい」と使います。
「供」という言葉(というか文字)がもつ従属のイメージ、「害」という言葉が持つネガティブなイメージを避けるためです。
このような言い換えは多くあって、単に言葉の問題だけでなく、ポリシーに関わる問題として意図的にそうされているのです。社会の意識改革を目指す団体の姿勢なのです。
ただ、このような積極的な言葉のイメージ作りではなく、言葉を受け取る側で勝手なイメージを作り上げ、過剰反応するという事態が往々にして起こります。
前述した「障害」や「異常」という言葉。
前者は「さまだけがあること」、後者は「通常と違っていること。並外れたさま」ですが、どちらの言葉も一般に使われる中でネガティブなイメージができあがっているために、たとえ学術的なことばであっても使用するのがためらわれる状況があります。
※なお、「異常」については、ネガティブなイメージが定着したことから、広辞苑には「好ましくない意をこめて使うことが多い」と注記されています。
言葉のイメージは、とくに外国語(カタカナ語)や専門用語が一般化したときに偏った、あるいは間違った用法が広まってしまう場合もありますね。
私がよくひっかかるのが「ナイーブ」。
広辞苑(ナイーブ)では「素朴なさま、純真なさま、感じやすいさま。うぶ」ですが、英和辞典(naive)では「単純、だまされやすい、幼稚な、素人の。純真。うぶ。」
なんかずいぶんちがいますよね。
褒めるつもりで「ナイーブだね」って言っているのをよく聞くのですが、妙にハラハラしてしまいます。