2004.12.5 心の言葉を紡ぐ 木村怜由さん

澤田:今週は、書タイポグラファーの木村怜由さん(きむらりょうゆ)を紹介したいと思います。タイポグラファーとも言っているので活字を起こすっていうような意味も含まれていますが、これが普通の書家とは違います。心の言葉を紡ぎ出して、書として表現する現代のセラピストみたいな存在です。そんな心の持ち主、心の言葉を活字で表現する、そんなような人です。

インタビュー1)言葉が降ってくる!UFO


GEONOUS~地球の智叡~-木村1

安田:今日は書道家の木村怜由さんにお話を伺います。よろしくお願いします。

木村:よろしくお願いします。

安田:実は私も時々書道展を見せていただきました。この前は書道を習うワークショップに参加させて頂いんたんですが書道はいくつくらいから始めたんですか?

木村:5才の時に近所のお習字教室に通っていましたね。母が女の子は字がキレイなほうがいいということで、たぶん母自身、字が汚かったというのもあるかも知れないですね。

安田:5才ってずいぶんと小さい時からですね。

木村:そうですね。でもすごく楽しかった。一応、きっかけは母だったんですが、その後、自分で積極的に通っていましたね。

安田:最初はどういう字を書いていたんですか?

木村:そうですね、例えば小学校の時に「つり」っていう字が初めて本に載ったんです。「うまいで賞」みたいなものをもらってとっても嬉しかったですね。

安田:昔そういうのを小学校の時に書きましたよね。

木村:まだ、お習字の段階ですよね。

安田:お習字と書道は違うんですか?

木村:習字は字を習う。書はやっぱり中国の三大書家たちが書いたものを見て学ぶ。全く同じ風に書く臨書というのが基本となっているのが書道なんですよ。

安田:5才で始めた習字から書道に変わったのはいつ頃ですか?

木村:高校すぎてからです。その時の仲間もみんな辞めちゃうけど、私は中学生になっても高校生になっても、先生のご自宅がある群馬まで通って習っていました。それで東京に行きますって話しをしたら、じゃあ私が出た書道の学校があるからそこに行ってみたらということでその学校の師範のもとに3年間通いました。

安田:じゃ~師範をとったんですか?

木村:はい、師範の免許もありますし看板ありますよ。

安田:すごいですね!ところで「りょうゆうさんはどういう字を書くんですか?

木村:実はよく間違われるんですが“りょうゆ“(怜由)なんです。

安田:そうでしたね。響きもすごくかわいくてキレイなお名前ですね。

木村:名前の由来もすごく良くて、私が学校を卒業する時、ちょうど卒業制作で大作を作った二十歳の時だったんです。雅語がほしいと思って、その時はまだ師匠がいなかったので名前を観てくれる方に何か良い名前をつけて下さいとお願いをしたら、ある日、天から下りてきたみたいでもうこれしかないわって言われたんです。私もそれがすごく気にいって、意味は、太陽のような気持ちで人に尽くす。そうすればあなたの周りに人が集まってきて、その人たちがあなたを助けてくれるでしょうっていう意味なんです。すごく気に入ってすごく好きな名前です。

安田:じゃあ、この名前のおかげで展示会を開いたら人が集まって来てくれたりとか。

木村:それもあると思いますよ!

安田:展示会もすごくおもしろい!ただの半紙に書いた字を飾っているだけじゃなくて色んな素材を使っていますよね?

木村:そうですね、鏡に書いたりとか、石に書いたりとか。

安田:あとは小さなオブジェに書いたり、あと染物にも?

木村:そう染色です。捺染という方法の比較的最近の染方があるんですが、それも習ってもっと自分の字を暖かいものにしたと思っていたんです。

安田:結構、自分が思いついたらなんでもやるんですね。言葉はどうするんですか?

木村:そうですね、言葉は、降ってくるって感じかな。自分に降りてきた言葉しか書けないなんですよ。

安田:怜由さんはいつもそういう直感を大事にしていますよね。怜由さんの展示会では自分の言葉と自分の詩を書き綴ってますよね。

木村:毎回そうかな。書家の人とかはやっぱり今流行りの歌とかを書く方が多いけど、私は書けないんですよ。その気持ちがわからないから。自分の降りてきた言葉しか書けない。近代詩という文書があって、漢字・かな・余り字文という部門になるんですけど、そういう今の人も読めるような感じのものは、私は自分の言葉しか書いてないかな。

安田:そうですね。漢字もあるし、カナもある。ローマ字もありますよね。

木村:ローマ字もなんでもあり。数字もあるし。それを書の字で書くという感じ。基本はもちろんやっていて師匠にもついてやって、それがあるから近代詩ができるんです。文字をうまく書くっていうのももちろん大事なんですけど、やっぱり私は気持ちを書くっていうほうに重点を置いていたので最近ワークショップを始めたっていうのがあります。みんな持っている気持ちを大事にしてそれを外に出すという作業のサポートをしたいなと思ってワークショップを始めたんです。

                   

インタビュー2)宮古の海は美しい!波

安田:今年は前からやりたかった夢を実現できたって話を聞きましたが・・・。

木村:はい、これは個人的なことなんだけど、3年くらい前に沖縄の宮古島に行ったんです。私は群馬県出身なので海を知らないんです。多分今まで本物の海っていうのを知らなかったんだと思う。初めて行ったときにこの海は絵かと思ったんですよ!海が青すぎて!飛行機の中から見たときに、これ絵じゃないの?写真じゃないの?真剣に思ったんです。それにすごく心が打たれて、、、、。ダイビングで潜ってみて、限りない自然のすごさみたいなものに触れて、すごく広くて高い空、、、なんか自分が救われた感覚になったんです。それでこの島に何かお返しがしたいというのを漠然と思っていたときに夢を見たんです。私はお習字道具をひとつ持って島に行ったんですね。その時、あっ、これなんだと思いつたのが「島の子どもと書と遊ぶ」という企画だったんです。半年前にその企画を島に持って行ったんだけど、出会いが出会いを呼んでくれて、教育委員会に行ったり校長先生に会ったりしたら是非やって下さいという暖かい言葉を頂いたんです。ステキな先生方にも出会って今月にその夢が叶いました。中1と中3の勇士が20人~30人くらい生徒を集めてくれて、同じような小さな作品を作ろう、自分の中から出てきた言葉で書こう、そして仲間たちでひとつの大きな作品を書こうということをしたんです。なんかものすごくこの島の子は、神の子だなって感じがしました。ホントに中学生なのかなっていうような言葉を書くし、そして言ってもいないのに足の指とかで書き始めたりするんです。最後はもう終わりだよ~って言ってもずっと書いてるんです。

安田:それは、すごく楽しかったんですね!

木村:はい。最初はこの人はどこから来たんだって感じで見られて、「こんにちは、初めまして・・・」みたいな感じだったんだけど最後は楽しかったよって言ってくれてすごく嬉しかった。嬉しかったし、あなたたちが私の願いを叶えてくれました、ありがとうございましたっていう気持ちで一杯でしたね。

安田:写真を見せてもらったんだけど体育館にシートを敷いてホントみんな自由に書いていましたね。

木村:そう、楽しく書いていました。

安田:何時間くらいもいやってたんですか?

木村:4時間プランで実際5時間くらいやってました。その間に地元の新聞社の取材もあったんです。書の企画だって言われたからどんな着物を着たマダムが来てるのかなって思っていたらしんですよ(笑)。来て見たら先生はちょっと若いし、子どもたちは床にへばってるし、すごくビックリしたみたいですね。これが私のワークショップなんです~って言いましたけど。


GEONOUS~地球の智叡~-木村2
                

感想)ハロウィン


澤田:はい!木村怜由さんを紹介しました。とってもおもしろい方ですよね。

安田:彼女は心が熱いんですよ!

澤田:気持ちの優しい直感力のある方みたいですね。

安田:自分がやりたい!と思ったらすぐに行動に起こす。なんか使命感みたいなものがあって、それがみんなに受け入れられてすごくいいことを沢山やっているんですよね。

澤田:まゆみさんもワークショップに1回参加したみたいですね。

安田:なかなか自分の言葉を書くのって恥ずかしいんだけど、でも怜由さんが用意してくれる様々な素材の筆と太さの種類もあって、普通の毛でできた筆とワラでできた筆があるんですよ。あと割り箸とか普通のお箸とか素材は何でもいいんですって。私はハガキに墨汁で買いたんです。怜由さんの作品展に行くと、例えば鏡にアクリルで書いていたりとか、石にアクリルかペンキで、「頑固者」って書いてあったりとか(笑)。あと金魚鉢にいろんなメッセージが書いてあって、その中に金魚やメダカが泳いでいたりとか、とにかく作品展もすごくユニークでなんです。

澤田:筆も選ばない、絵の具も選ばない。ただ自分の言葉を紡ぎ出せば道具はなんでもいいという感じですよね。おもしろいですね。あと企業のロゴデザインというお仕事もされているみたいですね。

安田:お菓子のパッケージとか企業のホームページとか、お店の看板とかそういうのもやってるそうです。

澤田:なんと、昨年の夏に写真集が出ていますよね!今ここにありますけど!

安田:そう写真集って言っちゃうでしょ?これ作品集なんですよ!怜由さんは美人だから思わず写真集って言いたくなっちゃうんですけど(笑)

澤田:それは失礼、失礼!(笑)、タイトルが「お散歩キラキラ」。

安田:舞台は下北沢で作品を書いている怜由さんが写っていたり、下北沢の町に飾られた作品がいっぱい写っていたりとか。

澤田:結構、おもしろいですよね。

安田:子どもから大人まで、みんなが持っている思いを出していけるお手伝いをできたらと言っていました。

澤田:心のサポーターみたいな方です。木村さんのホームページがあるみたいですけど。

安田:彼女のホームページのタイトルは「いったんひゃくまい」というんですけども、アドレスはhttp://kimuraryoyu.com/


澤田:かなりおもしろいワークショップをやっているので、みなさんも是非参加してみてください。今日は「書タイポグラファーの木村怜由さんを紹介しました。

2007/10/7 OA目

澤田:今日は最近封切された日本の空手映画『黒帯』に主演している八木明人さんを紹介します。八木さんは沖縄空手では有名な八木空手道場の館長でもあります。

八木:は~い!めんそーれ!(笑)

澤田:めんそーれ!元気な挨拶ありがとうございます!いよいよ待望の映画『黒帯』が1013日(2007)に公開ということですが、今日は色々とお話を聞かせてください。沖縄空手の老舗と言っていんでしょうか?八木空手道場の館長ということですが八木さんは今おいくつですか?

八木:今年で30歳になります。

澤田:若くして館長なんですね。この時期に道場を留守にして大丈夫なんですか?

八木:はい、30歳になったときに父であり師である八木明徳先生から館長を譲り受けたんですけど、男30歳になって足場を固めようかと思いながらも、東京で沖縄空手を広められないだろうかといろいろ考えながら向こうから出てきました。

澤田:私の手元に映画『黒帯』のパンフレットがありますが、この映画の誕生までには様々な苦労があったと思うんですが、この映画の内容はどんなストーリーなんでしょうか。

八木:そうですね、簡単に言えば空手の黒帯を先生から誰が受け継いで、誰がそれを継承し、次の世代に伝えるかというような真面目で正統派の空手映画という感じですね。

おやしらずインタビュー1)映画に出演するキッカケは?


GEONOUS~地球の智叡~-八木4

澤田:もともと八木さんは空手家なんですけど役者ではないですよね?

八木:はい、そうです。まったくのド素人です。

澤田:その八木さんがどうしてこの『黒帯』に出るということになったんですか?

八木:空手は日本の文化ですよね。僕も心のどこかで本物の空手を見せられる映画を世界に発信したかったんだと思うんですよ。カンフーであればジャッキー・チェーンだったり、ジェットリーとかいるじゃないですか。実は本物の日本の空手を映画として世界に伝えたかった人がこの映画製作者の中にいたんです。その人は西さんという方なんです。

澤田:西さんは制作者として関わっていますが出演もしてるんですか?

八木:はい!ご自身も出演しています。企画者、美術監督でもあり出演なんです。僕はというとオーディションがあってそこで選ばれたんですよ。

澤田:へぇ~オーディションを受けたんですか?それでどんな感じだったんですか?

八木:空手の部分では自信を持って堂々と出来たんですけど、とにかく演技をするのは初めてだったのでどんなに一生懸命やってもぎこちなくて、恥ずくてどうしようもなかったですね。小さい頃から目立ちたがり屋な性格で今まで恥ずかしいとかあまりなかったんですが、もう天と地の差がありました。200%くらいでオーディションもダメだろうなぁと感じていましたね。

澤田:じゃ~そのオーディションは自分では不合格だと思っていたんですね。

八木:絶対に受からないと思っていました。というか、初めは役者さんに空手を指導する先生として東京に呼ばれたんじゃないかと自分では思っていたんですよ。後でスタッフのみなさんに聞いたんですが、空手家に演技を教えたほうが本物の空手映画が出来るんじゃないかということで僕が選ばれたそうです。

澤田:映画制作の側とするとそこまで本物の空手にこだわって作ろうということで、演技は下手だけど空手は一級品だからなんとか演技を覚えてもらおうということですね。

八木:はい。そうみたいです。

澤田:それでどれくらいの期間、演技指導を受けたんですか?

八木:みっちりと2ヶ月くらいですね。

澤田:2ヶ月?それでクランクインしたのはいつですか?

八木:2006年の102日くらいですね。

澤田:最初の日はどうでしたか?

八木:やっときたぜ~みたいな感じです!

澤田:お~!勉強してきたオレの演技がようやくここで花咲くぜ!みたいなそんな感じですか?

八木:はい。まさにそうですね!

澤田:初日はリラックスできましたか?

八木:前の日は眠れなかったですね。とうとう始まるんだなぁって。沖縄から来て東京で一人暮らしをするのも初めて、生活全てが新しいことで緊張して眠れなかったですね。俺はこのために東京に居るんだぁって。遂にこの俺が本物の空手映画に出れるんだぁ~と一人感動していました。

澤田:オーディションから演技指導を受けた2ヶ月間の成果が花咲くわけですからね。

緊張しますよね。映画の撮影中は何か楽しかったことやエピソードみたいなことが

ありましたか?

八木:そうですね、緊張の連続でしたがやっぱり楽しかったですよ。監督をはじめ、美術さんとスタッフの皆さんがそれぞれプロでテキパキとした動きの凄さにビックリしました。自分の仕事を全てこなしてひとつの物をみんなで作り上げているという感じがあって感動しましたよ。

澤田:主演ということですとだいたいは八木さんのシーンを中心に回るわけですよね。

八木:そうです。なので失敗したらヤバイとか(笑)。みんなに迷惑かけるとか、時間と予算も限られているし、、、みたいなことも考えましたね、

澤田:そうですよね(笑)。こういう本物の空手映画を撮るとなると真剣勝負のような空手の型を組んだりしますよね。ケガはされなかったんですか?

八木:ケガは多かったですね。空手の練習をみんなでやったりしたんですけども、とにかく本物にこだわりたいということで嘘の格闘じゃなくて、本当に相手に当てにいくという練習だったんですよ。当てるほうも当てられるほうもその練習ばっかりやっていたんですよ。どうやったら衝撃を少なくホントに当てていけるかなとか。監督も嘘がないような演技にしたかったみたいです。

澤田:他の映画なんかでそういうシーンを見る時がありますが、あきらかに当たってないなぁ~、嘘っぽいなぁ~とか感じるときありますもんね。それが分かると冷めちゃったりして。ただ、実際の出演者は大変ですね。体中アザだらけだったりして!

八木:そうですね。結構アザだらけでした。

澤田:男の勲章みたいなものですね。

八木:はいそうなんです。

           <ミュージックブレイク>

ロケットインタビュー2)空手は運命である

GEONOUS~地球の智叡~-八木3

澤田:ところで若くして館長になった八木さんの経歴を聞きたいんですが?

八木:僕の道場の開祖は剛柔流の宮城長順先生という方でして、その後継者が自分のおじいちゃんである八木明徳先生なんです。総本部で沖縄空手の本家本元のような存在で剛柔流を継承している道場です。僕はその家にたまたま産まれて小さい頃から空手の環境で育ちました。いつも身近に鉄アレイだったりサンドバックだったり、空手に来たお兄さんたちだったり、そういうのを見ながら育ったので気づいたら自分空手をやされていた感じですかね。

澤田:産まれた時から空手家にならなきゃいけない運命だったわけですね!

八木:悲しいかな‥‥そうですね。

澤田:なんか北斗の拳みたいでカッコいいですね。全くこの映画そのままですね!

八木:はい!そうです。

澤田:そんな運命に生まれてきたんですから監督もみんな八木さんを選びますよね(笑)でも産まれた時から朝から晩まで寝てもさめても空手となると結構嫌になるときもありますよね?

八木:そうですね。小さいときは毎日嫌でしたよ。3歳から始めたんですが最初は全然わからないじゃないですか。突きや蹴りをして遊んでいる感じだったんですけど、やっぱり幼稚園とか小学生になったら学校終わって空手に行かないといけないんですよ。みんなは塾行ったり水泳行ったり習字したりしているのに‥‥なんかうらやましかったですね。

澤田:そうですよね。周りとはぜんぜん違う生活スタイルですからね。そういえば何か別な趣味があるって話を聞いたんですけど。

八木:はい!『琉球フリースタイル』というロックンロールバンドやっています。

澤田:えっ!ロックンロールバンドですか?バリバリのロックンロールですか?

八木:なかなか素直でポップなロックです。

GEONOUS~地球の智叡~-八木2

澤田:それはすごいですね。身体はがっちりしているし、まさか音楽をやっているなんて思いもしなかったですね。それでバンドでの担当は?

八木:僕はボーカルと少しギターを担当しています。沖縄には米軍基地があって小さい頃から金髪の外人が歩いていてカッコ良かったんですよ。体格も大きいからなんか憧れていたんですよ。映画やファッションを見ていてとにかくカッコ良くて、音楽はアメリカンロックやツイスト。格好もリーゼントや革ジャンだったり、それこそ当時は不良の音楽みたいなイメージが強かったんですが、恥ずかしながらバンドやったら女にモテるんじゃないかとかいうような甘い考えもあったんですよ。あとは‥‥空手以外で自分の気持ちを表現したいっていうこともあったんですよね。

澤田:見た目は硬派なイメージがあるけどちょっとナンパなところもあるんですね(笑)。毎日の規律にそって厳しい練習をしていると、そういう違う部分で自分の心を表現したいとういう興味がでてくるのかもしれないですね。八木さんのロックバンド「沖縄フリースタイル」ですが全国でCD発売されているんですよね!

八木:はい、タワーレコードで販売されています。

澤田:全国で発売されているなんてすごいですよね。空手もそうですが音楽もプロなですね。音楽活動のほうは現在どんな感じで進めているんですか?

八木:沖縄を拠点にずっとやってきてあとは全国のライブハウスツアーに出たりしています。色んな地域をまわっているんですが東京だけ違いますね。ノリも違うし盛り上がります。東京のバンドもオシャレだし原宿なんかの街並みを見てもすげ~って感じしますよ。やっぱり自分は田舎者だなぁ~とか思いますね(笑)

澤田:でも八木さんは自身の主演映画が1013日封切られるんですからすごいことですよ。映画が封切りになったら色んなところから取材を受けるんじゃないですか?

八木:そうなると嬉しいですね。

澤田:では最後になりますけども映画もとりあえず撮り終えて封切を待つのみ。自身のバンドもプロとして活動しているんですが、今後の夢や目標があれば聞かせてもらえますか?

八木:そうですね、空手はもう小さい頃からやっていて食事と一緒で生活の一部みたいな感じです。ただやっぱり自分の空手もまだまだなんでトレーニングを積みながら色んな人に空手を伝えたいと思うし、それと自分の唯一の趣味でもある大好きなバンドは絶対続けていきたいと思います。とにかく男として産まれた以上、男らしく生きたいというのが僕の目標です。

澤田:いいですね。とても男らしい目標ですね。八木さんは産まれたときから空手家として生きる命を背負っているわけですよね。空手家としてちょうど30歳を迎えた時期に映画主演という想像もしていなかったことが起こり、全く違う世界が見えてきたって感じですよね。

八木:空手の大会とかで優勝したときも嬉しかったんですけどやっぱり映画が決まったときはとても嬉しかったですね。空手やっていて良かった~(笑)みたいな。今思えば小さい頃から無理矢理空手をやらされていた感じもしていたんですが、まさか空手の映画に出られるとは思わなかったです。このことでとても刺激になったし、空手をしている自分を客観的に見れて、今ある自分が好きになりました。

澤田:それが八木さんの一番正直な気持ちだと思います!僕らも1013日楽しみにしています。今後も是非ともがんばってください。

          <ミュージックブレイク>

澤田:本格的な空手映画「黒帯」主演で空手家の八木明人さんのお話を聞いて頂きました。ここでもう一度紹介しましょう。1977年沖縄生まれで30歳、国際明武館剛柔流空手道連盟総本部 八木空手道場の館長をされています。3歳の頃から27年間空手一筋ということで真っ直ぐな道を歩んできた八木さんですが、やはり小さい時は何で僕がこんな嫌な思いをして朝から晩まで空手をやらないといけないのか疑問に思っていたということでした。小さい頃から毎日牛乳を1ℓ飲むのが日課とされたそうです。小さい頃には一日1ℓ飲むっていうのはなかなか大変ですよね。なので夕食の時にも残っている牛乳を飲んでいたそうです。八木さんの目標は、真っ直ぐ男らしく生きたいということですが、実は沖縄のほうで活動している人気ロックバンド『琉球フリースタイル』というバンドでボーカルなんかもしています。タイトル『琉球フリースタイル』のCDは全国のタワーレコードで販売されています。なかなかポップで沖縄の爽やかさみたいなものが伝わってきます。是非、みなさんも聞いてみてください。

   GEONOUS~地球の智叡~-八木1
今回の空手映画『黒帯』ですが、
2007年モントリオールの世界映画祭ワールドコンペティッション部門の正式招待作品に選ばれています。八木さんもモントリオールに行かれたそうです。日本では来る1013日(土曜日)に銀座シネパトス、そしてそこから全国順次のロードショーということになっています。

   八木さん以外の出演者ですが、夏木陽介さん、白竜さん、大和田信也さんなどそうそうたる俳優陣が出演されています。みなさんも是非この『黒帯』の映画を映画館でご覧下さい。一本、筋が通った映画です!

  手裏剣映画「黒帯」公式サイト http://kuro-obi.cinemacafe.net/                  

富士山2005.8.7 OA ヒマラヤに情熱を燃やすクライマー 加藤慶信アップ

■追悼の辞

08101日午後10時頃、ヒマラヤ高峰6000m付近で「日本クーラカンリ登山隊2008」のメンバーとして参加していた加藤慶信さんを含む3人が雪崩に巻き込まれ亡くなられました。若手登山家のエースだった加藤さんは明るい性格で仲間から愛される存在でした。加藤さんとは兄貴と慕っていた登山家の小西浩文さんやその仲間たちと一緒に食事を共にしたこともあります。笑顔が優しくてとても心の温かい方でした。本当に残念です。加藤慶信さんのご冥福を心よりお祈り致します。



加藤1
写真)05年仲間とのパーティ(真ん中:加藤さん)

■インタビュー1)登山をはじめたキッカケは?飛行機



澤田:今日は若手登山家のエースである加藤慶信さんに山への想いをお聞きしたいと思います。宜しくお願いします。

加藤:宜しくお願いします。

澤田:加藤さんは現在おいくつですか?

加藤:いま29歳です!

澤田:もともと明治大学で山岳部なんですね。冒険家の植村直己さんの後輩になるんですか?

加藤:そうですね、同じ山岳部の後輩になりますね。

澤田:昨年の5月に登山家の小西浩文さんに出演していただいたんですが、小西さんとも仲間なんですね。

加藤:そうですね。小西さんは山の大先輩でもあり、とても尊敬すべき人でお兄さんのような存在です。僕にとっては兄貴って感じです!

澤田:小西さんも素晴らしい登山家ですよね。出身地が山梨県ということですが登山を始める理由があったと思うんですが、子供の頃は何か山に憧れみたいなものがあったんですか?

加藤:実は小学校2年生くらいから中学までずっとサッカーしてたんです。山とはまったく関係なかったですね。高校に入ってからはサッカーに飽きてバレーやってました。これも山とはまったく関係ないですね。球技ばっかりでしたね。

澤田:まったく山には関係ないスポーツをしてたんですね。それがどうして山になったんですか?

加藤:大学に入ってから4年間の時間があるので、ちょっと変わったことというか普通のスポーツではなく今しかできないことに4年間のめりこんで、後で自分の心に残るようなことをやってみたいなと思っていたんですよ。いろいろ探していた時にもらった新人勧誘のチラシがあって、何故か山岳部のチラシだけがいい紙を使っていてカラーでピカピカ輝いていたんですよ。それで先輩の話を聞きにいったらそのまま引き込まれて、後は知らず知らずのうちに先輩に洗脳されてしまったんですよ。それが今まで続けるとは思わなかったですね。今ではもう山のない生活は考えられないですね。

澤田:加藤さんは20代で8000m級を6座登頂しているということですが、この記録は日本人では加藤さんしかいないんですよね。登られた山は全てヒマラヤなんですよね。

加藤:そうですね。8000m以上の山は世界でヒマラヤ山脈にしか存在しないんですよ。

澤田:恥ずかしい話ですが私は知らなかったんですよ!

加藤:そうなんです。実は7000m以上の山からはヒマラヤにしかないんですよ。

澤田:だからみんなヒマラヤにいくんですね!

加藤:そうですね。やっぱり山をやる人間はどうしても高い山への憧れというのがでてくるのでみんなヒマラヤを目指しますね。

■インタビュー2)チョモランマの神 謎の少女に救われる流れ星



澤田:それで527日にエベレストに登頂してきたんですよね!何メートルの山ですか?

加藤:8848mです。

澤田:普通の人には想像できない高さですね。お聞きしたんですが中国側から無酸素で登頂したというのは日本人として初めてということですか?

加藤:そうです。日本人としては無酸素で頂上まで達したのは僕が初めてだそうです。

澤田;すごいですよね!表彰モノですよね!

加藤:いや~そんなことないです。やればできる人は登山家の中にいっぱいいると思いますが、たまたま無酸素で挑戦する人がいなかったというだけです。

澤田:ところで8000mくらいになってくると酸素量はどのくらいですか?

加藤:8,800mで平地の3分の1くらいですかね。

澤田:空気を吸うときの肺にかかる負担はすごいですよね。僕らは平地でも運動して息切れのときは苦しいですよ。

加藤:そうですね。常に意識してしっかりと呼吸しないとだめですね。一回息が切れちゃうといくら息を吸っても酸素が入ってこないという感覚で全然呼吸が整わないですよ。5歩や10歩くらい歩くと平地で200mから300mくらいを全力疾走したくらいの息の切れ方ですかね。さらにその切れた息を元に戻すのにはかなりの時間がかかるという状況ですね。

<ミュージックブレイク Jhon Buter TRIO Company Sin音譜

澤田:加藤さんは527日にエベレストの頂上に登られたんですが、かなり危険な体験をされたそうですね。どんなことがあったんですか?

加藤:そうですね、頂上に行くまでは確かに苦しい思いもしたんですが自分の中ではある程度の計算どおりの登頂することができたんです。それで今度は頂上から下りに入ったんです。自分の中では身体的にはまだ自分の建てたテントまでしっかりと戻れる力があるとちゃんと計算していたんですね。

澤田:それはもちろん無酸素ということですよね。

加藤:そうです。ずっと無酸素です。それが8500mくらいまで下りてきたところでちょっと目がかすんできたんですよ。白いモヤが全体的に視界の中にでてきて、最初は雲が出てきて天気が悪くなったのかなと思っていたんですが、冷静に考えるとあきらかに酸素欠乏による視覚障害になっていたんです。それは無酸素ではよくあることなんですが脳に酸素が届かないので視覚神経を刺激してそんな状態になるみたいなんです。それが僕の場合はそのモヤがどんどん広がって最終的には真っ白になってしまたんです。光は入ってくるんですが真っ暗ではなく真っ白で濃い霧がかかっているような感じで目の前に手をかざしても何にも見えないくらいの状態になったんです。

澤田:その時の体調はどんな感じなんですか?頭痛がするとか他の症状はあるんですか?

加藤:その時は頭が痛いとか息が苦しいとかということはもうなくて、ただ体が疲れているということはあるんですけど。

澤田:どんな疲れ方なんですか?だるいとかそんな感じですか?

加藤:そうですね、なんというか生命力を削りとられているというか、ちょっと表現が難しいんですが、なんか人間の根本的な部分を何かに削り取られているというような感じですね。疲れという表現とはちょっと違うんですね。この状況が長く続けば、自分は必ず死ぬということを意識できるような体の状況ですかね。目が見えなくなってこれはまずいと思って、自分の登山人生の中では最大の修羅場がきてしまったなという感じだったんですね。ただ最初は恐怖があったんですが、その状況を冷静に見つめることができて逆に開き直れたって感じになったんですよ。冷静になって対処策を考えてなんとか生き延びる方法を探さないといけないといと思ったんですね。それで最大限の努力をして死んでしまったらもうしょうがないっていう感じでしたね。逆になんか不思議なんですが自分が今までものすごく危険な状況を体験したことがなかったので、不謹慎ですがちょっとワクワクするみたいな気持ちもありましたね。この状況において自分はどこまでやれるのかという自分への挑戦みたいな気持ちがでてきましたね。そのときの対処なんですが、酸素欠乏なので基本的には高度を下げて酸素の濃いところに行くか、或いは酸素ボンベから酸素吸入するかどっちかなんですよ。その時の自分の状況では目が見えないので高度を一気に下げることは無理ですよね。

澤田:因みにその時は何人で行っていたんですか?

加藤:その時は3人でエベレストにいったんですが、下山はネパール人のシェルパと2人だったんです。そのシェルパは酸素を吸っていたんですね。酸素を吸えばすぐ目が見えると聞いていたのでその酸素をちょっと吸わせてもらったんですが10分や15分たっても全然回復しなくて一旦はその酸素ボンベをシェルパに返したんですね。というのは、シェルパも高地民族ですごく高度には強いんですが、まだ高さは8500mくらいで、それまで長い間酸素を吸っていた人間が突然酸素ボンベをはずすということは非常に危険なことなんですね。この状況で自分のミスで家族もいるシェルパにもしものことがあってはいけないと、大きなリスクを負わせられないと思ったんです。そして目が見えないながらも身体は動いたのでシェルパに右とか左とか指示をもらって無理やり下山してたんですが、やっぱりすごい時間がかかってしまうんです。そしてまたシェルパが心配してくれて、「加藤さんこのままでは危険なので自分は大丈夫だからどうか酸素を吸ってください」と言ってくれたんです。どうしようか考えたんですが、ここで僕が意地を張ると結局はシェルパに迷惑をかけてしまう。それはシェルパという民族は非常に人情深くて仲間を見捨てたりする民族ではないんです。こんな状況でもたぶん僕のことも見捨てないでいてくれるんです。ただこの状況で見えないまま歩いても結局すぐに夜になり、恐ろしい寒さがやってきて身動きができなくなって、目の見えない僕と一緒にいるシェルパにも大きなリスクを背負わせることになる。そうであれば酸素を吸って早く目が見えるようになって、とにかく安全なところまで下りた方がシェルパの為にもいいと判断したんです。自分では本当に情けなくて、シェルパに申し訳なかったんですが酸素を吸わせてもらったんです。

澤田:極限の中での加藤さんの冷静な判断ですね。

加藤:それで酸素を1時間ほど吸ったらなんとなくぼんやり周りが見えてきたんです。でもまだ水の中で目を開けているようなそんな状態です。かなり歩くのが厳しい状況だったんですがそれでもなんとか自力で7900mに自分で作った最終キャンプ地のテントまで帰りつくことができたんです。

澤田:僕らには想像ができない怖さですね。なんとか辿り着いたテントではどうしていたんですか?

加藤:実は僕は軽量化しようということで、重い荷物や寝袋なんかもそのテントには持ってきてなかったんですね。テントについてからすぐに夜になってしまい、外はマイナス20℃以下の厳しい寒さです。わずかに残っていたガスコンロを弱火にして暖をとっていたんですよ。寝袋も無く、酸素が薄いので寝るということはできないんですが、意識が朦朧としてうつらうつらしていたんです。自分では幻覚を見ているという感じではなかったんですが、突然、テントの中にチベット人の10代の少女が現れたんですよ。その女の子が「寝ちゃだめだよ!寝たら死んじゃう!自分の足をみてごらん、あなたの足は氷のように冷たくなっているよ、早くお起きなさい!」って言われて、それで、ハッとして起きて足の指を触ったら氷のように冷くなって感覚が全くなくなっていたんです。急いで手で足指を揉み解したら20分ほどでようやく感覚が戻ってきたんです。確かにそのままにしていたら足の指が全部凍傷になって切断という事態になっていたかもしれないですね。本当にその女の子に救われたんです。テントの外は雷や吹雪でものすごい状況で、もしかしたら自分はこのまま死んじゃうじゃないかって真剣に思ったほどだったんです。でもその女の子がずっと朝までテントの中にいて僕を励ましてくれたんですよ。

澤田:えっ、、、、、、!その女の子は何回も出てくるんですか?

加藤:本当に不思議なんですが、その子はテントの中にずっといるんですよ。膝を組んで体育座りみたいな格好で僕の顔のすぐ近くにいて「がんばって!がんばって!寝ちゃだめだよ!」と言って朝まで励ましてくれるんですよ。それで朝になって明るくなったらもうその女の子はいなんです。そんなことがあってなんとか無事に下山できたんです。今でもその女の子には本当に感謝しています。実はネパールから無事に帰国して小西さんにそのことを話したんです。そして聞いてびっくりしたんですが、チベット人は昔からエベレスト(チベット語:チョモランマ)を神の山として崇めているんですが、そのチョモランマに住んでいる神はチベット人の10代の女の子だという伝説があるそうんなんです。小西さんが言うには、それはチョモランマの神がお前を守ってくれていたんだと、それは超ラッキーだといってくれたんです。僕は全然知らなくて後で聞いてびっくりですよ!

澤田:うゎ~ そんなことがあるんですか?でもその少女が現れたということは、加藤さんの命は本当にヤバかったんじゃないですか!知らず知らずのうちに生死をさまよっていたということですよ!

加藤:そうですね。その励ましがなければもしかしたら向こう側に行っちゃってたかも知れないですね。



加藤2

写真左)加藤さん

写真右)加藤さんが兄貴と慕っている小西さん


■感想)ドンッ

澤田:登山家の加藤慶信さんの話を聞いていただきました。はっきり言って8000mの山に普通の人が登るのはかなり難しいです。そんなところに装備を担いで無酸素で登るということは想像を絶する世界です。インタビューの時に会った加藤さんの鼻のてっぺんは凍傷で黒くなっていました。お話にもあったようにかなり危険な状況だったようです。そんな状況をチョモランマの神が彼を守ってくれたということですが、8000mという世界では何が起きても不思議ではありません。とにかく無事に戻ってこれてよかったです。加藤さんのこれから目指す夢としては、やはりヒマラヤにある8000m級の山々に挑戦したい。できれば無酸素でフェアな手段でトライしたいといっていました。