晩年の言葉





山宣一人孤塁を守る

(昭和4年全国農民大会)
 


 





山本 宣治(やまもと せんじ)

 

1889年(明治22年)5月28日 - 1929年(昭和4年)3月5日

 

日本の戦前の政治家、生物学者。京都府出身。



1924年1月、西尾末広などが設立した「大阪労働学校」の講師に就任。

 

同年3月には「京都労働学校」の校長に就任する。

 

しかし、同年5月、鳥取で産児制限の講演を行った際、その内容を警察官に激怒され、この出来事が新聞に載ってしまう。

 

これが原因で山本は京都帝国大学を追放された。

 

同年6月、大山郁夫らにより設立された「政治研究会」の京都支部設立に参加する。

 

同年に既存の産児制限の理論とは違うアプローチをした「産兒調節評論」(後に「性と社会」と改題。

1925年、京都学連事件のため12月家宅捜査を受ける。

 

1926年、同志社大学を辞めさせられた。

衆議院議員時代


同年3月、京都地方全国無産党期成同盟に参加する。

 

同年5月、労働農民党(労農党)京滋支部に参加。同年6月、京都で小作争議が起こりこれを指導する。

 

同年10月、議会解散請願運動全国代表に就任する。

 

ここから山本は全国的に有名になる。

1927年5月、普通選挙を前にした衆議院京都5区の補欠選挙に労農党から立候補要請を受ける。 

 

当初は病気を理由に固辞していたが、水谷長三郎にまだ被選挙権が無かったことや共産党の要請もあり、労農党公認で立候補した。 

 

489票で落選したが(当選は立憲政友会の垂水新太郎、4843票)、制限選挙であり、この時点で有権者であった中産階級以上と対立する政策を掲げたことを考えれば善戦といえた。

同年8月、父・亀松が死去し「花やしき浮舟園」の主人になる。

同年12月、労農党京都府連合会委員長に就任する。

翌1928年の第1回普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)に京都2区から立候補し、1万4412票で当選した。 

 

労農党からは水谷長三郎と2人の当選したが、山本は共産党推薦(当時は非合法のため非公式)候補であり、反共主義者の水谷とは一線を画した。

同年、三・一五事件では事件を事前に察知していた谷口善太郎からの忠告を受け共産党関連の書類を全て処分していたため、事無きを得る。 しかしこの頃から、山本への右翼による攻撃が始まる。 

第55・56回帝国議会では治安維持法改正に反対した。

1929年3月5日、衆議院で反対討論を行う予定だったが、与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。 

 

その夜、右翼団体である「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。