武士・藩主 江戸
 

 

 

 

 

 

辞世





なせば成る 


なさねば成らぬ何事も 


成らぬは人のなさぬなりけり





出典 顕彰碑 米沢市餐霞館(さんかかん)遺跡










上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)

生誕 寛延4年7月20日(1751年9月9日)

死没 文政5年3月11日(1822年4月2日)

墓所 山形県米沢市の松岬神社、上杉家御廟

江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。

領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。

諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名。




家系

日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、母は黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩第4代藩主・上杉綱憲の娘である。

このことが縁で、10歳で米沢藩の第8代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。

兄弟のうち、兄の秋月種茂は高鍋藩主を継いだ。

弟のうちで他に大名となった者に人吉藩主・相良晃長がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した。

正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。

側室のお豊の方(綱憲の六男・勝延の娘、重定や春姫の従妹にあたる)との間に長男・顕孝(第10代藩主・治広の世子)および次男・寛之助(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。

上杉家において女系の血統に基づく相続は(より近縁であるが)先例があり、綱憲は第3代藩主・綱勝の妹・富子の子(父は高家・吉良義央)であったし、初代藩主・景勝からして藩祖・謙信の姉・仙桃院の子であった。

ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙、勝意、勝定、定興(内藤信政)の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで第10代藩主となった。

また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(第2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。

勝承は重定の養子の候補にもなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


生涯

寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。

宝暦9年(1759年)、この時点で未だに嫡男の無かった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。

宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。

宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服し、直丸勝興と称す。

また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。

江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。

明和4年(1767年)に家督を継ぐ。

深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、


「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」 


といった洒落巷談が流行っていたほどである。







加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。

名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。

ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。

天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。

また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。

隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。







享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号する[4]。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。

文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。

享年72(満70歳没)。

法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。

初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。