最期の言葉








別になにもないようでしたから、


どうもありがとうございました。





「マンザイ~!」  





万歳を漫才と言った。

(東京裁判・・・これは茶番劇であり、漫才であった!)



出典:昭和精神史 桶谷

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広田 弘毅



広田 弘毅 / 廣田弘毅(ひろた こうき)




1878年(明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日

日本の外交官、政治家。

勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。

旧字体で廣田 弘毅(ひろた こうき)とも表記される。

外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。

文官では唯一のA級戦犯となり死刑となった。








生涯

生い立ち


1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。

初名は丈太郎(じょうたろう)。

徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。

今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。

『広田弘毅伝』などによると、当時の広田家はひどく貧しかったというが、親族によるとそれほど貧しくはなかったという。

また徳平は条約改正に反対し、大隈重信外相に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。

来島は玄洋社の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している。

福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、予科を経て福岡県立修猷館(のち福岡県立修猷館高等学校)に入学した。

同窓生には同期で外交官となった平田知夫がいる。

広田は幼少期から柔道、書道を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。

後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった。

当初は家計への負担をかけないために陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。









修猷館卒業直前、信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ「弘毅」と改名した。

「弘毅」は『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採られた。

当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。

修猷館卒業後、平田とともに上京し第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。

学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している。

また頭山満の紹介で伯爵副島種臣、外交官山座円次郎、政治運動家の内田良平や杉山茂丸の知遇を得た。

内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。

山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じている。

日露戦争時には捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。

大学卒業後の1905年(明治38年)に外交官試験を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。

赴任直前に玄洋社幹部月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。

静子との結婚前には元外相加藤高明の紹介で三菱財閥の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている。

翌年1906年(明治39年)の外交官試験では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。

同期に吉田茂、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎らがいる。










内閣総理大臣

二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職した。

当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。

このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は病気を名目に辞退した。

そのため枢密院議長一木喜徳郎が広田弘毅を推した。

西園寺もこれを了承し、近衛を介して吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。

広田は拒み続けたがついには承諾した。

昭和天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。

広田は名家出身でないのはもとより、親類・縁者にもこれといった人がなかった。

当時日本は業績主義が徹底し、出自に関わらず軍学校を経て高級軍人や帝国大学を経て高等文官への道が開かれていた。

これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。

1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。

この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。

第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。

第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。

これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。

組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。

好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。

吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し(かわりに吉田は駐英大使に任命される)小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。








就任後は二・二六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内寿一陸相ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。

しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。

また粛軍と共に「庶政刷新」に取り組み、以下の広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。

1.国防の充実

2.教育の刷新改善

3.中央・地方を通じる税制の整備

4.国民生活の安定 (イ)災害防除対策、(ロ)保護施設の拡大、(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興

5.産業の統制 (イ)電力の統制強化、(ロ)液体燃料及び鉄鋼の自給、(ハ)繊維資源の確保、(ニ)貿易の助長及び統制、(ホ)航空及び海運事業の振興、(ヘ)邦人の海外発展援助

6.対満重要国策の確立、移民政策及び投資の助長等

7.行政機構の整備改善

具体的には義務教育期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、母子保護法などの法案化を決定した。

11月には日独防共協定を締結した。また自ら天皇にも働きかけ、文化勲章を制定した。

一方で軍部の自由行動を押さえ、統帥の一元化をはかるために大本営を設置する案を持っていた。

しかしこれは正式に提案されることはなかった[12]。

1937年(昭和12年)1月、議会で浜田国松議員と寺内陸相の間で「割腹問答」が起こった。

激怒した寺内陸相は広田に衆議院解散を要求、しかし政党出身の4閣僚がこれに反対し、永野修身海相も解散には否定的であった。

このため広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った。

広田の後任として組閣大命を受けたのは宇垣一成であったが、陸軍が反対し軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られずに組閣できずに終わる。

かわって林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。








戦時中

外相辞任後は貴族院議員として過ごした。

1939年(昭和14年)の平沼騏一郎内閣総辞職後には近衛が広田を首相候補としてあげた。

一方で広田は近衛を推薦したが、西園寺は阿部信行を奏薦した。

阿部の後の米内内閣では請われて内閣参議となった。

米内内閣が倒れると元首相として重臣会議に出席し、第2次近衛内閣の成立に関わった。

この時、当初広田は「この際やはり軍に諒解のある、軍に近い者がいい。

従って軍人がいいけれども、適当な人がなければ、やはり近衛より他あるまい」と消極的ながら賛成した。

しかし近衛が松岡洋右を外相としようとすると、「松岡では危ない。東郷を起用するがよい」と反対した。

しかし近衛は松岡を外相とし、日独伊三国条約(日独伊三国軍事同盟)を締結した。

広田は三国条約が英米を敵にすることとして反対している。

1940年(昭和15年)10月の大政翼賛会発足後には後藤文夫、東郷茂徳、石黒忠篤、松本烝治とともに貴族院院内会派無所属倶楽部を組織した。

1941年(昭和16年)の第3次近衛内閣の成立には難色を示したものの、東條内閣成立には賛成している。

この時対米交渉に悩んだ東郷外相が辞職して事態打開を図ろうとしたが、広田はこれを慰留している。

第二次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)開始時の広田の反応はさまざまなものが伝えられている。

1941年(昭和16年)11月29日に開かれた重臣会議では、東条首相が「戦争に訴えざるを得ざる理由」を述べた。

『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』では「阿部(信行)、林(銑十郎)、広田は首相の決意を諒とせるが如し」と、東条に同意したように描写している。

一方で『木戸幸一日記』では会議で「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。

後に昭和天皇は広田の発言を「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と評している。

戦況が悪化した1943年(昭和18年)頃の広田を、広田と面会した学生が「軍部の横暴に憤られ、それに抗しきれぬ東条内閣の無策を非難され、戦争は絶対勝てぬから早く終息させねばならぬとおっしゃり、日夜その方策に奔走されているようでした」と回想している。

1944年(昭和19年)に東條内閣が倒れると、小磯内閣によって最高戦争指導会議が設置された。

9月4日に開かれた会議では、和平仲介のため広田を特使としてソ連に派遣する決定を下した。

しかしソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフによって特使受け入れは拒絶されている。

1945年(昭和20年)6月にはソ連を通じた和平交渉を探っていた東郷茂徳外相の意を受けて、箱根の強羅ホテルに疎開していたソ連大使ヤコフ・マリクと非公式の接触を図る。

広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたことにくわえ、日本側の条件を明確にしなかったこともあり、東郷が期待した返答を得ることはできなかった。

6月29日の3度目の面談(東京のソ連大使館で実施)がマリクとの最後の接触となり、7月14日に再度の会見をソ連大使館に電話で申し入れた広田をマリクは拒絶して交渉は終結した。

8月10日の重臣会議では「無条件降伏も亦已むを得ない」と発言し、日本の降伏を迎えた。









A級戦犯

逮捕


大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。

巣鴨プリズンに収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った。

この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。

広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。

ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と統帥権の独立を盾に政府に圧力をかける軍への対応に苦慮したことも率直に明かしている。

日中戦争当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われたことには「事実はその通り」とも答えた。







訴追

こうした広田の回答から、国際検察局は広田を「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型である」として、「傍聴の各段階を遂げていく上での積極的な追随者」「共同謀議の一端を担った」と認め、訴追対象に加えた。

なお、広田は尋問の最後で「自分の処罰を軽くするための弁明を行っているとは思わないでほしい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る」と述べている。

この結果、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われて起訴された。

最も大きな罪状とされたのは日中戦争を始めたことについてである。

南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定した。

広田は公判では沈黙を貫いた。

弁護人の一人であるジョージ山岡が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれについて語ろうとしなかった。

外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて

「このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから」

としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も同様に広田に無罪を主張するよう促していた。

にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。

広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。

広田の場合は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任を擦り付ける発言に終始した木戸幸一は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、…つまらん事だと思うんだ」と評している。









死刑判決


広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。

広田は55の訴因で訴えられていたが、そのうち「侵略戦争の共同謀議」、「満州事変以降の侵略戦争」、「戦争法規遵守義務の無視」の三つの訴因で有罪と判定された。

判決では首相期の国策基準、日独防共協定、特に日中戦争期の外相としての責任が言及された。

初期の日中戦争について、「広田はこれらの計画をすべて十分に知っており、そしてこれを支持した」「外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していた」とした。

また南京事件に関しては「かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった」と指摘し、「彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった」としている。

この有罪言い渡しの後、法廷はしばらく休廷に入った。この時弁護人の花井忠に「量刑というものは情状で軽くなるものでしょうか」と聞き、花井が「そうです」と答えると「困ったナァ、長くつながれるのが一番困る」と述べた。

その後、再開した法廷で広田には死刑宣告が行われた。

この後、広田に「残念でなりません」と語りかけてきた元ドイツ大使の大島浩に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。

なお、11人の裁判官中3人(インド、オランダ、フランス)が無罪、2人(オーストラリア、ソ連)が禁錮刑を主張している。

オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。

近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯である広田は注目されていた。

そんな中で文官で唯一の死刑判決に広く衝撃が走った。

「戦争を止めようとしていた」という印象を国民の間にも強く持たれていた広田に対する死刑判決には、多くの疑問の声が上がった。

占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名が集められた程である。

また、死刑を求刑していたはずの連合国の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事のジョセフ・キーナンですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。

また玄洋社に対して、GHQの調査分析課長であったエドガートン・ハーバート・ノーマンが「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」という見解を示していたことや、大陸で工作活動をした黒龍会を設立した内田良平と広田が友人であったことから、「広田=右翼」という先入観があったと見る説もある。

なお広田の妻静子は東京裁判開廷前に自殺している。

自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。




死刑執行

1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行される。

なお広田は文官であったが、他のA級戦犯同様靖国神社に合祀されている。









その後

2001年(平成13年)当時首相であった小泉純一郎が靖國神社に参拝したことをきっかけにA級戦犯分祀論が注目を集めた。

その際、広田の孫の弘太郎(当時67歳)は2006年(平成18年)7月27日付朝日新聞をはじめとするマスメディアの取材に対し

「広田家が1978年(昭和53年)の合祀に同意した覚えはない」、

「私が合祀を聞いた時にはびっくりした。そんなはずはないと、間違えて祀ったと」、

「靖国神社は確信犯としてやったのでしょうね。勝手に祀られたというか、びっくりしたということに加えて言うとすれば、不快感まで言っていいのかわからないが決して喜んではいないし、できれば取り消して欲しい」、

「家族としては英霊として祀られることを希望しません。特に靖国神社に。英霊だとみなして頂くことが、うれしいことではない。靖国神社というものはお国のために戦死した兵隊とか軍人とか、そういう方を祀るためにできた神社であって、軍人でもなければ戦死者でもない広田弘毅が靖国神社に祀られる資格さえない。私どもから希望したりお願いしたことはありません。神社の方から同意を求めるということもありませんでした」、

「祖父は軍人でも戦没者でもなかったので靖国神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という見解を述べている。

ただし、靖国神社では「合祀に際して遺族の同意は必要としない」としている。



[写真出典]

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