覚悟の歌


もののふが戦の庭にをりたてば生もねがはず死をも厭(いと)はじ

大君に捧げまつりし此の命水漬(みづ)く屍と散るもいとはじ



参考 【送料無料】角田覚治 [ 松田十刻 ]

※ブログ管理人が数多くの遺稿集から辞世に相応しい歌を選ばせていただきました。



角田 覚治(かくた かくじ、1890年(明治23年)9月23日-1944年(昭和19年)8月2日

日本海軍の軍人、海軍中将、功二級。



太平洋戦争

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー作戦の支作戦であるアリューシャン作戦では空母「龍驤」の艦攻隊や空母「隼鷹」の艦爆隊でダッチハーバーを爆撃して陽動を行うほか、攻撃力を補うために巡洋艦搭載の九五式水偵4機を爆装で出撃させて2機を喪失するなどの強引な用兵で被害を出している。

10月、南太平洋海戦では第三艦隊司令長官南雲忠一中将の旗艦「翔鶴」が損傷して航空戦の指揮を委譲されると、乗艦「隼鷹」を最大戦速で突出、その様子を見ていた他艦の乗員は、「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった」と回想するほどの力戦で米空母「エンタープライズ」を撃退、「ホーネット」を大破させる(その後、総員退鑑したホーネットの鹵獲を命令されるが曳航不能のため駆逐艦の雷撃で沈めている)。





この時に角田の意を受けて「隼鷹」飛行長が発した、未だ飛行隊の行動範囲外であるにも関わらずの攻撃隊発進、そして「本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という壮烈な命令は、角田の闘将ぶりを示すエピソードとして有名である。


1943年(昭和18年)7月、基地航空部隊として再編された第一航空艦隊司令長官に就任し、大本営直轄の決戦部隊として温存策の下、日本本土で錬成にいそしんだ。

1944年(昭和19年)2月、絶対国防圏に危機が迫ると予定を繰り上げて連合艦隊に編入され、テニアン島に進出した。直後の米機動部隊のマリアナ諸島空襲では、参謀の反対を押し切って反撃を強行させたものの中核部隊が全滅。その後もパラオ大空襲や渾作戦でのニューギニア方面への戦力抽出などにより、見るべき戦果を挙げないまま期待されていた戦力を消耗していった。

6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)では本来は迎撃の主力となるはずであった第一航空艦隊の戦力は僅かであり、第一機動部隊を充分に支援できなかった。

その後、米軍上陸後のテニアンの戦いでは彼の闘志を持ってしても劣勢は如何ともしがたく、数次に渡る司令部脱出用の潜水艦と会合することにも失敗して地上戦に移行した。

7月31日「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム。」との決別の電文を発する。





角田自身は自決せず、司令部壕から手榴弾を抱えて他の兵士と共に戦闘に参加、その後の消息は不明。

今日では戦闘中に戦死したと認定されている。


【送料無料】新世界海戦1946(2) [ 中岡潤一郎 ]

【送料無料】激浪の覇戦(2) [ 和泉祐司 ]

にほんブログ村 : 人気ブログランキングへ

参考 ウィキペディア 角田 覚治