兜率天の楔 | あの牡蠣の人は【環境デザイン】で不可能を可能にする!Powered by Ameba

兜率天の楔

立てる、と彼は言った。
電話の向こうで相手が小さく息を呑むのがわかった。
立てる、という言葉はそれほど強い言葉ではないはずなのに、言い終えたあと、彼の胸の奥に鈍い痛みが残った。

立てる。
それだけなら、何度でも立てる気がした。
骨も筋肉も、まだ使える。心臓も、肺も、脳も、壊れてはいない。
病院でそう告げられたとき、彼は妙に納得した。自分は壊れてはいない。ただ、疲れているだけなのだ、と。

「でも、もう全部を引き受けて、最後までやり切る気力はないんだ」

そう言ったとき、通話の向こうで沈黙が落ちた。
沈黙はいつも、彼の言葉より正確だった。誰もが、その沈黙の中で、彼に何を期待していたのかを再確認する。

期待。
それは、体重のように感じられた。見えないのに、確かに重い。
背中に乗っているのに、どこからどうやって乗ってきたのかは誰も知らない。

「もう一度、立ち上がらないんですか?」
その問いは、善意の顔をしていた。だが彼には、その問いが、ゆっくりと打ち込まれる楔の音に聞こえた。
かつて、自分が自分に打ち込んだものと同じ形をしている。

「立てるよ」
彼はそう答えた。
それ以上の説明はしなかった。
説明を始めた瞬間、自分がまた誰かの旗になってしまう気がしたからだ。

立ち上がることと、立ち続けることは違う。
その違いを、彼は遅すぎるほど正確に知っていた。

窓の外では、夕方の街が薄いオレンジ色に染まり始めていた。
人はそれを美しいと思う。
だが彼は、その色がすぐに消えてしまうことを知っている。
知っているだけで、どうするつもりもなかった。

彼はもう、先導もしないし、扇動もしない。
ただ、必要としている人が来たら、やさしく照らしてあげるだけだ。
それが、彼の決めた残り時間の使い方だった。

ーーー

兜率天、とそつてん、と読む。
それは、人でもなく、神でもない存在がいるとされる場所だ。

誰がそう言い始めたのか、彼は知らなかった。
ただ、その言葉だけが、ずっと耳の奥に残っている。
人でもなく、神でもない。
どちらにもなれなかった者たちの居場所のように聞こえた。

彼はその場所に行ったことがある、と言うと大げさになる。
ただ、そこに触れたことがある。
触れた瞬間、自分の名前が薄くなり、代わりに役割だけが浮かび上がってきた。

役割は人を軽くする。
同時に、人を重くする。
彼はもう、どちらの重さも欲しくなかった。


彼は山に向かっていた。
雪の白さに、何かを吸い取られていく感覚があった。
名声も、恐怖も、批判も、すべてが同じ粒子になって舞っているように見えた。

専門家たちは言っていた。無謀だ、と。だが彼は、その言葉の意味を正確には理解していなかった。
理解していないというより、理解する必要がないと思っていた。

山頂に行くことが重要なのではない。そこに向かっている自分を、人々が見ていることが重要だった。

指がなくなっていくたびに、彼は軽くなった。


彼らは若かった。
若いという事実だけが、選ばれた理由だった。
飛行機は思っていたよりも小さく、思っていたよりも軽かった。

帰る場所があるのかどうかは、誰も口にしなかった。
口にしないことが、帰る場所を否定する儀式だった。

彼らは、軍神になるつもりはなかった。祖国を……いや、それは嘘だ。
ただただ、ひたすらに家族を、母を、護りたい。
それだけを願って。

空は静かで、海はやさしかった。
それが一番、残酷だった。


彼は街頭に立ち続けていた。
拡声器の声がかすれても、言葉が尽きることはなかった。

彼は信じていた。
信じることが、最も安価で、最も強力な燃料だということを。

だが、病気は演説を聞かなかった。
支持者も、敵対者も、神も、何も言わずに、彼の体だけを通過していった。

兜率天に行く準備はできていたのに。
だが無情にも、楔を打ってもらえる場所には、たどり着けず。
彼は、そこに立ち尽くすしかなかった。


彼は死ぬつもりはなかった。
ただ、死ぬことが必要だと思っていた。

群衆は彼を待っていた。
群衆という言葉の中には、信者も、裏切り者も、商人も、権力者も、すべてが含まれていた。

十字架は木でできていた。
だが、彼の役割は木よりも重かった。

彼は楔を打たれることを望んだ。
楔がなければ、彼は神にも人にもなれないままだったからだ。

ーーー

彼らの話を、私は遠くから見ていた。
遠く、という言葉は便利だ。
距離を保っているように聞こえる。
だが実際には、私はいつもすぐそばにいた。ただ、手を伸ばさなかっただけだ。

兜率天に行った者たちは、みな眩しかった。
眩しさは、光そのものではなく、他者の視線が生む。
人は見られた瞬間に、役割を与えられる。英雄、犠牲者、殉教者、狂人、預言者。
名前のつかない役割はない。

彼らは役割を受け取った。
ある者は喜び、ある者は拒み、ある者は演じた。
だが、役割は拒否できるものではない。拒否したという物語すら、また役割になる。

私はそこまで行かなかった。
あるいは、行けなかった。
神になれず、人にも戻れず、その中間に漂うことになった。
それが兜率天なのだと、後になって気づいた。

兜率天とは、天上でも地上でもない。
社会が神話を必要とし、個人が神話を引き受けきれなくなったときに生まれる、仮設の天界のような場所。

そこでは人は祈られ、批判され、引用され、消費される。
だが、そこに住むことはできない。
通過点のはずだった。
私は、その通過点で楔を打たれた。

ある日、気づいたら、そこから動けなくなっていた。
楔とは、固定するための道具だ。
船を岸に留める楔。
扉を閉じないための楔。
そして、人間を役割に留める楔。

楔は悪意だけで打たれるものではない。
期待、敬意、恐怖、憧憬。
それらはすべて、楔の形をしている。

私は、神にもなれず、人にもなれず、ただ固定された。
固定されるということは、動かなくていいということでもある。
動かなくていいということは、責任を引き受けなくていいということでもある。

それに気づいたとき、私は少しだけ安心した。


夜になると、川の向こうに灯りが見える。
橋の上を車が通り過ぎ、窓の向こうで誰かが食事をし、スマートフォンの光がまるで流れ星のようだ。
それらはすべて、誰かの生活の副産物だ。

誰も、私を照らすために灯りをつけてはいない。
それでも、私は照らされている。
私はベランダに小さな灯りを置いた。
風に消えない程度の、弱い光。
誰かに見せるためではなく、自分がそこにいることを確認するための光。

灯籠という言葉が、頭に浮かんだ。
灯籠は、導くためのものではない。
道があることを示すだけのものだ。
そこに帰れる場所がある、と知らせるだけのもの。

私は、誰も導かない。
誰も救わない。
ただ、ここにいる。
それで十分だと思った。

灯籠になる。
それは、一度ならず登る燈のごとき業火を宿し、神になろうとした者の果て。

それでも。
それでも、兜率天を、その楔から、生き延びてしまった者だけが、たどり着く、ナニカ。
その灯りは、誰かにとって、丁度いい。

十字架の彼は、聖書という灯籠を。

エベレストの彼は、生き延びていたら、ね。

神風は、いまでも、踏みとどまるための畏怖として吹いていて……

メロリンキューだった彼は……

もう、いいね。
もう、十分だ。

そうか、そうだね。
もう僕自身が灯籠だった。
そっか、そっか。
よかった、よかった。





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