「自由と特権の距離ーカール・シュミット制度体保障論・再考」石川健治 を読んで | 「試験勉強」と「法学研究」の対抗を読む 

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久々に憲法の勉強がしたいと思い、前々から読みたいと思っていた「自由と特権の距離」を読みました。

こんなにすぐれた論文を読んだのはいつ以来でしょうか。
日本における制度的保障がいかに誤った考え方にもとづいて議論されていたかを指摘する、非常に力強い論文でした。

カール・シュミットの制度体保障論を軸にして、サヴィニー、レナー、ヴォルフ、オーリウ等歴史上の法学者たちの思想をたどり、シュミットのいうInstitutionとInstituteは何が異なっているのかを分析しつつ、制度的保障とは一体何なのか、そしていかにあるべきかを重厚なテクストで記す。

石川健治という人の文章は非常に哲学的です。
本文中においても、テクストというものを非常に重視する傾向があり、テクストはある一定のコンバセーションすなわち文脈の中でしか理解され得ないことをも述べています。

おそらくこの人は憲法だけでなく、ソシュール、ロラン・バルト、デリダ等の思想家達の考えにも通暁しているのでしょう。

この論文を読んでいて一番不思議だったのは、非常に難解な言葉が何度も出てくるため、読みづらいようにも思えるのですが、なぜかスラスラ物語のように読めるのです。

これも彼の日本語能力ないし論理力がいかに優れているのかを教えてくれています。

さて書評はおいておいてこの論文を読んで抱いた感想に移りましょう。


一番に抱いた感想は権利と制度は切っても切り離せない関係にあるのだなと実感させられたことです。
これはおそらく石川健治が伝えたいと思った本旨ではありません。
しかし、私はこの論文を読んで一番にこの感想を抱きました。



権利は制度に裏打ちされる。
権利があるとはいっても、それを実現する制度がなければその権利は絵に描いた餅である。
そうだとすると、権利は制度がなければ存在し得ない。
すなわち、制度があるから権利があるといっても過言ではない。

これは典型的な法実証主義的考え方である。
ハートを代表とする法実証主義者はこのように論じて、法=制度に基づかない権利なるものを主張する自然権思想を一蹴してきた。

しかし、このような考え方をとると憲法制定権力について疑義が生じてくる。
全法規範の根本規範たる憲法。
それを制定する権力の拠り所は一体どこにあるのか。

権利に制度が先行してしまうと、その制度はどのようにして作られるのか、その制度がどうあるべきなのかが曖昧になってしまうのである。

そこが法実証主義の弱点であろう。

一方自然法思想においては、自然権という権利を想定した上でその自然権の衝突の調整のために法規範が存在すると考えられている。
しかし、自然権という権利があったとしても、やはり上記のように制度がなければその権利の行使をすることは困難というよりも不可能である。

法実証主義、自然法思想、どちらもなかなか弱点が存在するものである。

そこで、私はこの「自由と特権の距離」を読んで以下のような仮説にたどり着いた。

確かに制度がなければ権利行使をすることは不可能であるから、制度が権利に先行するようにも思える。
しかし、このように考えたらどうだろうか。
権利を行使できるような制度を構築する権利が存在すると。
すなわち、裁判所や民事訴訟等の制度がなければ権利を行使することは不可能であるからこそ、権利を行使するために、裁判所や民事訴訟法という制度を構築させる作為請求権としての権利というものが存在するのではないかという仮説である。
そうだとすると、法実証主義の弱点たる制度の正当性を市民の権利に持って行くことができるため、法実証主義の弱点を克服することができる。

・・・ここまで読んで、正直こいつはバカだ!と思った人もいるであろう。

確かに、制度の正当性を権利にもっていくことはできたとしよう。しかし、その制度を構築させる作為請求権としての権利はどのようにして行使するのだ?と。
これだと、また制度を構築させる作為請求権なんぞ絵に描いた餅で結局自然法思想と同様の批判が妥当するではないか!と。
確かにそのとおりである。これは自然法思想を言い換えただけであり、何の問題解決になっていない。
では、なぜ私は上記観点を指摘したのか。

確かに、権利行使のための制度を構築させる作為請求権としての権利は制度的裏打ちがない以上、それを行使することは不可能である。
しかし、こう考えることもできる。
逆に上のような作為請求権としての権利が行使できるような社会的共同体があったとしよう。
そうすると、そのような社会的共同体は権利行使のための制度が構築されていくことにより各人は自己の権利を満足に行使することができるようになる。
このような社会的共同体こそが国家と呼べないだろうか。

権利行使のための制度を構築させる作為請求権としての権利を制度的裏打ちがなかったとしても行使できるような共同体こそが国家たりうる最低条件ではなかろうか。

これを「国家の条件」と呼ぶこととする。


・・・

というような論文を書いてみようとか思うほどの感動を抱きました。

実際本文中では法制度保障論という考え方がでてきます。
これは、憲法が、権利行使のために必要な法制度は憲法律的に保障されていると考えるものです。
実際に、日本国憲法を見てみると29条の財産権がまさにそれにあたるといえるでしょう。


上の論文は本当に書こうかなーって思ったりしてます。
タイトルは
「国家の条件ー権利と制度ー法実証主義と自然法思想のアウフヘーベン」
という感じで笑

書くとしても受験が終わったあとでしょうけど笑

興味が有る方はぜひこの「自由と特権の距離」読んでみてください!