30歳のころ、今後の人生に対する姿勢を決めようとして考えたのです
①死んだらそこですべてが終わりなのか
②死んで終わりではなく、思いは残り責任は残る世界が有るのか
紙の商売を始め、ベネッセ(福武書店)などが得意先で
順調に収益を上げ会社も作ったころに考えたことです
そのころ、少しヤンチャな友人もいて
モーターボートやヨット、ジェットスキーなどで遊んでいました
まだ、独身だったので
やりたいことをやっている反面、生真面目な部分もあり
心の中で色んなことにブレーキをかける思いも強かったのです
なんで、やりたい放題のことをしようとするとブレーキがかかるのか分からなかった
悶々とする中、そこで、人生とは何だろうと考え
生き方の方針を決めようと思ったのです
そのころの私の世界観は、「無宗教」でした
宗教にはヘドが出るというか、とても嫌いで
転生輪廻ということも知ってはいましたが深く考えてはいませんでした
しかし、人生を生きるにあたり、
死んで終わる世界とそうでない世界では、生き方は違ってくる
その世界に合わす必要があると考えたのです
そこでやった想定問答は、図に書いたようなことでした
もっと単純でしたが、先入観を捨て両方を見てみたのです
白紙の上に2つを並べて考えました
その時、出た答えは「わからない」でした
現実はそうですが、真実はどちらかであるはずです
そこで事実を探してみました
しかし、どちらも証明することはできません
無いことに加担する、情報と
有ることに加担する、情報
それを、「わからない」という答えの両側に出していったのです
無いことに加担する情報は、皆無でした
有ることに加担する情報は、聖書にしろ仏典にしろ、民間伝承にしろいろいろとあります
さらに、私は、一時、念力とか透視力ということに関心が有り、いろいろと訓練もしていたせいで科学では説明のつかない経験を数多くしていました
ユリ・ゲラー全盛のころです
そのように、科学で証明できる世界を超えたモノがあると実感していたことが
死後の世界は、おそらく有るだろう
強く念じたことは、物理的な力になるということは
そのような思いのエネルギーが消えて無くなるとは考えにくいと思いました
その時の答えは、こうでした
「死後の世界は有るか無いか分からない、おそらくは、有るだろう。その細かなことはさらに分からないけれど、おそらく、生真面目に生きようとすることには何らかの意味が有るはずだ」
やりたい放題のことをやろうとする心の声よりも
生真面目にやろうとする心の声に従おうと考えたのです
それは、まさに正しい道でした