BE HAPPYドキドキ

えっ えっ えっ えっ

同じ商品・サービスを取り扱っていても、利用する人の感じ方が違ってしまうのはどうしてだろう?「感じ方」は買い手、売り手にとって、実は一番大きな共通のテーマではないか。

人の行動のすべては感情を満たすことに向けられているからだ。

購買という行動もそうです。商品・サービスを買うことが目的ではなく、買うことで満たしたい感情を満たすことにある。一番大きな共通のテーマだという理由は利用する人の感じ方は最終目的の一部だからだ。

利用する人の感じ方が違う原因はたとえば接客力の違いに影響されますが、その違いはどのようにして起こっているのか、次のような階層になるのではないか。

1)商品・サービス
2)技術・知識
3)考え方・価値観
4)BE(存在のあり方)

この内、他者に見えるのは、1)と2)だ。 得意げ

<技術・知識>だけあっても、ほとんど何も作れないし、サービスすらできない。たとえ作ったにしても人の心に届くものは作れない。つまり売れない。売れたにしても、良いものとなんでもいいを使い分ける2極化した生活者の状況に適した判断で便利よく使われるだけだ。売れるけれど利益は出ないという状況に押しやられてしまう。サービスだって同じでマニュアル程度のことしかできない

<技術・知識>を支えているのは、何を美しいと思うか、何を大事にしているか、何を持って善しとするのかという基準となる尺度があってはじめて<技術・知識>は生かされる。つまり<考え方・価値観>があってどの方向に何のために力を発揮するのかという道筋が出来る。

そして、<考え方・価値観>の下では、BE(存在のあり方)という階層がある。BEとは、BE HAPPY、LET IT BEのように、存在を表現する存在動詞のことで、日本には馴染みが薄い概念のような気がしてならない。

"To be, or not to be"は、セリフが魅力のシェイクスピアの代表作「ハムレット」の有名なセリフ。「生きるべきか死ぬべきか」というように訳されたりするが、苦肉の策で適切とは思えない。それだけ翻訳が難しい。自分は「あるがままにか、あるがままではなくか」ということだと解釈している。

BE(存在のあり方)とは、どんな風に働いているのか、どんな風に生きているのか、毎日の暮らしで何を信じ、恐れ、喜び、悲しみ、怒り、聴いたり、話しているのか、態度や姿勢がある。いってみればこれこそが本心というものだ。

$ゲンキポリタン|愛と勇気の生活ブログ-ドッグス


<考え方・価値観>は言葉で伝えることができるが、<BE(存在のあり方)>については、その道のプロを除けば、ほとんど言葉にすることは困難だ。だからといってないわけではなく、誰にでも必ずある。ほとんどの場合、ドキドキする、楽しい、腹がたつというように感情で表すのが精一杯で、アサーティブであることのバックボーンだ。BE(存在のあり方)に気がつかない限り溌剌とした人生を過ごすことも、コミュニケーションもできない。自分とのコミュニケーションが不全のまま、他者とコミュニケーションできるはずがない。

 私たちが仕事と呼んでいるのは、この3つの階層全体であり、人はその全体を感じ取っている、つまり仕事シーンでのお客はこの全体と取引しているのだ。安いとか、便利だとかいう理由だけが買う場合の原因ではない。言い換えれば買ってもらえるというのは、人間力や仕事力を提供している売り手に向けた共感や敬意の表明なのだ。

それは恋愛でもなんでも同じで、真に幸福な恋愛に押し上げるか、逃避の場としての恋愛に成り下がるかは、BE(存在のあり方)のあり方による。

クレームにあるような「どのような教育をしているのか」という質問は、正にそのことを明らかにした言葉なのだ。その裏には応酬性へのこだわりがある場合が少なくない。応酬性とは、簡単に言うとギブ&テイクのことで、クレームの場合には対価への不満だ。

 日本古来の武術である柔道や剣道で求めた世界と同じように<技術・知識>を生かすには、それにふさわしい<考え方・価値観>と、その根底である<BE(存在のあり方)>に重きを置いた考えに共通している。LET IT BE、つまり「自分道」を築こうという次第だ。


君のBE HAPPYを祈っている。ビックリマーク

$ゲンキポリタン|愛と勇気の生活ブログ-ビーハッピー