先日、自宅で「ごろごろ温泉♪」の個人セッションがありました。
お客さまに対して、どれくらいお役に立てたか…はわかりませんが、私自身はセッション中、へいわな気持ちで居続けられました。
そして翌日、私自身がそのセッションで癒されたことに気づきました。
今、原点回帰をしていたら、原点も原点の人に行きついた話です。
昨年からボチボチとブログを投稿していますが、ここ数年、ずっと私は潜っていました。
ブログもあまり更新しないし、世間というか、表に出ることを敢えてせず過ごしていました。
仕事でお外には出るけれど、自分の意見や考えの表明なんて、相方さんにするだけでね。
「私はいったい何をすればいいのだろう…??」
を、延々と壊れたレコードのように頭のなかで回転させていました。
しばしば相方さんにそれをぶつけて、答えを求める。
本当に迷子。どうしたらいいのかまったく分からずです。
五里霧中。残念なほどに夢中違い。
心の奥に「なにか」はあるのだけど、それが何なのかは分からない。永遠迷子。
もうひとつ探っていたのが、私の本当の「質」。
自分の思考の癖があって、それが異常なほど私の行動を妨げる。
なんていうか、私の「本質」と「思考の重さ」にギャップがある。
これを紐解くことを徐々にこつこつしていった、ここ数年でした。
本来は自由人で軽い私。
この質はどうやら父親に似ているらしいと、ようやくわかってきた。
ところが、私の思考は「こうあらねばならぬのだ!」という、「世間の常識や枠組み」にはまろうとする。
この考え方は、母親の教育の賜物。
その賜物って漢字が、私の生き方に沿っているのかは疑問だ。
ぐぐっと探っていくと、私は、父親の素養を大きく受け継いでいるフシがある。
母親の質がベース(=基盤/OS)ではないのは、お恥ずかしい数々のマイヒストリーで一目瞭然。
母親だったら絶対にしないであろう、向こう見ずに突っ走って、ヤバイ生活を数年前にしたのだから。
これは母親には内緒にしている。
というか今の生活も内緒。
相方さんの存在も秘であった。この正月までは…。正月に告白したら大変だった。
・・・この話はまたいつか。
私というひとは、自由でお軽い自由人の父親がOS で、厳格で規律正しい武士のような母の教えがアプリで乗っているのだと思う。
父と母とでは性格、性質が全然ちがう。だから生活における価値観も当然ちがう。
だから、しょっちゅう口喧嘩。たいてい母親から吹っ掛けて、言い合いになっていた。母の言いがかり甚だしいってこともよくあった。
子どもの頃は、そんな夫婦喧嘩をみるのが嫌でしょうがなかった。
今なら、彼らの喧嘩はきっと独自のコミュニケーションだったんだろうなぁと思える。
しかし、最近になるまでずっと母親の言い分が正しいと思い込んでいた。
母親の言い分が筋が通っているように見えていた。
おかげで父親は悪者というかね、分が悪かった。
今なら…母親の言い分もわかるけど、父親の嘆きもわかる…気がする。
当人はすでに亡くなっているので本当のところは分からんのだけど。
いまはもう、生きてる母の言い分しか聞くことはできない。
父も母も、人間としては優しい人なんだと思う。
どちらも他人に対してとても親切にしているのを知っている。
ただ、父と母それぞれに、他人には向けられる親切が、お互い向け合うことができなかったんじゃないかという気がする。
家族だからこそ、ということもあったのかもしれない。
この2人の、父と母の、それぞれの言動や振る舞いを思い返すと、私のベースとなる「質」の多くは、父から受け継がれているものではないかと思うようになった。
ここからは、もう少し父の話を続けてみる。
母曰く、父は話好きで人とのお付き合いは大好き。ついでに目立ちたがり屋でお祭り好き。
なんかの会の会合?飲み会?なんかがあると、幹事なんかを喜んでかって出る人だった。
そしてしっかりお騒がせな人だった。
私も覚えているが、父は町内会の議員選挙のとき、応援演説をしていた。
(私も中学の時、クラスメートの応援演説を体育館で全校生徒の前でしたことがある。自ら喜んでやったわけじゃない。そのときはただやらされただけだ。)
ある市会議員選挙のときは、嬉々として選挙事務局長もやっていた。
弁舌さわやかに朗々とスピーチするもんだから、議員候補から「上手い演説されると私が霞むので控えてほしい」とまじめに言われた…という逸話がある。
兄貴の結婚式のスピーチも振るっておりました。マイクを両手に挟んで喜んでいたっけ。
そして軽さといえば体重も軽い。
身長176センチで体重が53キロあるかないか、風邪ひくと51キロくらいになる。
風が吹いたら飛ばされそうな軽さだった。
そんな父は50を過ぎてから試験勉強を始める。
訳あって失業したとき、一生食べていける仕事として司法書士を目指すようになった。
ほかで仕事をしながら受験勉強をする日々……。
と思っていたら、母に内緒で会社を辞め、一年間勉強に打ち込むこともしていた。
その秘密がばれたとき、家族会議の席では、しっかり吊るしあげられる父の姿があった。
こう見ると、我が家はなにかと母に秘密にやってしまうことが多い。
母にばれるといろいろ面倒……という思惑がはっきり見えるなぁ。
そして、父にとっての司法書士試験は生涯のライフワークとなった。
宅建、行政書士は順調に一発合格だったが、司法書士は難関だった。
よく「自分がもう10年若かったら」とこぼしていた。
理解はすれど記憶力がどうにもならん。すぐに答えが出てこない、と悔しそうに。
私もその頃の父と同じ年代になり、言っていたことがよくわかる。
咄嗟に言葉が出てこない。知ってる単語が出てこない。
これが試験となれば辛かろうなと、深く共感できる。
そして、その間に行政書士の事務所を開いた。
個人事務所を開くことについても、母と悶着していたような気がするが、父は自分の城を持つことができて嬉しそうだった。
ちょうどバブル全盛期。そこそこお客さんも増え、事務員さんも雇って事務所が軌道に乗り出した。
この調子だと来年はいいぞと意気込んでいた矢先、父は亡くなった。
亡くなる最後の年も司法書士試験は欠かさなかった。
10年選手で、お父さんが最高齢なんじゃないか?と、笑いながらの最後の受験だった。
毎年試験から帰ってくると、手応えあったとか、ダメだったとか言っていたけど、最後の数年は毎年「今年はできた!」と言っていた。
ある年は試験の休憩時間に電話がかかって来て、「今年の問題は当たった!できたと思う!」と、嬉しそうに途中報告を試験会場から母親にしてきていた。残念ながらぬか喜びに終わったのだけれど。
この辺りの行動も、私と似ている。
上手くいくと途中経過を相方さんに電話してしまうあたり。誰かに報告したくなるもんなのよね。
父が開設した事務所の前には、仕事内容が書かれた看板を掲げていた。
そこに、「よろず相談承ります」と書いてあったとか。母からの情報では。
おそらく「各種相談承ります」ではなかったかと推測される。
ある日、保育園の保母さんをしているという20代後半の女性が、父親の事務所にやってきた。
ちなみに事務所といっても、アパートの2階。車道から細い通路を通って階段を上るので、一見さんだとちょっと勇気がいる。
普通のアパートだから。
その女性が持ち込んだのは、「大学入試に推薦状が二人分必要なので書いてもらえないか」という相談だった。
短大卒業して保育園で働いているけれど、実は法律を勉強したいと思っている。
すると大学の社会人入試枠があることを知った。
そこで、大学でもう一度勉強したいと家族に伝えたが、反対されている。でも、どうしても大学に行きたい。
どうしたらいいか悩んで悩んで歩いていたところ、「相談承ります」という看板が目に入ったので訪れた…ということだった。
「入試に推薦状が必要で、頼める人がいなくて困っている」というその女性に、父はたいそう感動し、引き受ける。
父は勉学したいという向上心ある人にとても感心を示す。
その女性の学びたいという熱意が父の心を打ったのでした。
そこで父は二人分の推薦状を書く。
一通は自分が書いて、もう一通は父が言う文章を事務員さんに口述筆記させた。
結果、女性は大学に合格。大学の人から「推薦状が素晴らしかった。」と言われたそうだ。
そして父は料金を受け取らなかった。
女性は後日、テレホンカードをいっぱい持ってお礼に事務所にやって来たそうで、父はとても嬉しそうに話してくれた。
テレホンカードというのが時代を物語っている。
それから一年もたたずに父は亡くなる。
父の死を知った女性は、泣いて仏壇にお線香をあげてくれた。
「先生が(=父のこと)私を救ってくれたんです。」と話してくれた。
合格の報告をしたとき、父が「大学では哲学を別に学ぶといい。」とアドバイスしたそうだ。
素直な女性は、哲学を選択科目で取ったと言っていた。
なぜ哲学をすすめたのかは聞いたけど覚えていない。でも、哲学を学べと言ったのは父らしい気がする。
その後10年近く、我が家にはその女性からお盆と暮れにお心遣いが届いた。
「いまの私があるのは先生のおかげですから…。」といつも言っていた。
昨年の暮れ、父の33回忌を行ったが、いまだに当時のお客さまや事務員さんから盆暮れに贈り物が届く。
30年以上というのは凄いことだ。
これには、母が父の死後もきちんとお付き合いをしてきたからということが多分にあるだろう。
皆さん優しくて親切で気分のよい方々ばかり。
あるお客さまは「先生にはお世話になったし、父親と同じだ思ってたから。なんか困ったことあったら言ってください。」といつも言って下さる。
事務員さんは、「今まで勤めたことがなくて、何もできなかった私を先生が雇ってくれていろいろ教えてもらったから、ほかの所でも仕事ができるようになったんです。」とか、ありがたいことを言って下さる。
わずか数年間のお付き合いしかできなかった父。それなのに死後30年以上も母とお付き合いくださって、ありがたいかぎりです。
そういう真心ある方々とご縁が結べたことに、父が良い人だったからとかそういうことではなく、なにか目に見えない導きというのか、そういうものも働いているのではないかと思ってしまう。
実は、父が50歳になった年の年賀状が数年前に出てきました。
私は自分の50歳とちょうど重なって、同じ年で書いた父親の文章に感動したのを覚えています。
ブログに投稿しようと思ってずーっと保存していたんですよね。
転載します。
明けまして おめでとうございます
昨年私は満五十才をけいかしました 半世紀を生きて、又新しい年を
迎えることに、いささかの感慨を覚えずには居られません
この五十年の間に、私は一体どれほどの人達と触れ合うことが出来
たか、考えることがあります 小学校以来の学生時代のお友達や
先生方、職場や社会において生活の上で出会い、お付き合いをした人達、
それらを全て合わせても一万人に満たぬ数の様に思います 一億の人々
が住むこの国土の中で、人生に於いて出会うことが出来る人が一万人に
満たぬとするならば、言葉をかわし、挨拶をするだけの簡単な触れ
合いであっても、それは決して偶然ではなく、まさしく前世の因縁、
神の御心に依るものと思はざるを得ません この出会ひを大切に
しなければならないと思います まして毎年お年賀状を頂いたり
差し上げたりする人達が居られることを私は何よりも有難いことだと
思い、このお付き合いを大事にして行きたいと思っています
何卒今年もよろしくお願い申し上げます
昭和五十二年 元旦
↓ちなみに宛名側
私はこの文章を読んでとても驚いた。
母は熱心に神社に参拝して、占いを信じた。
「〇〇と言われたから、この行動はやめたほうがいいい。」と母が父に言うと、父はちょっと馬鹿にしたようにご託宣と言ったことがある。宗教は妄信してしまうと、信じるところがすり替わってしまうというようなこと言っていた。
母は、父が信心深くないと常に言っていた。
だから、父から神とか前世とか因縁とかいう言葉が出る人だとは全く思っていなかった。
しかし、実は父は精神世界を独自の価値観で見ていたのではないかと思う。
戦争中が父の学生時代だった。
海軍に学徒志願し、戦地に出征する前に終戦を迎える。
たぶん思うように勉強できなかった若い時代が惜しかっただろうし、戦争というなかで感じる死生観というのもあったのかもしれない。
だから哲学を勧めたのではないだろうか。
父は人が好きで、人を大事にしていたのがとても納得できた。
私はそんな父の質を確実におおいに受け継いでいる。
そして、それを私のなかに感じることを少なからず嬉しく思っている。
私がセッションを「よろずの相談」とした理由はここにあります。
直接出会う人は少ないけれど、どこかでいつかその人のお役に立てればいいなぁと思うからです。
本日もお読みくださりありがとうございます。