喧噪の隙間を縫うように、東京には江戸から継がれる庭園が点在する。そのなかで、清澄庭園、六義園(りくぎえん)、旧岩崎邸庭園の名園はいずれも明治初め、ひとりの男が手に入れた広大な土地が礎になっている。
岩崎弥太郎―。幕末の志士にして、日本を近代化に導いた実業家。あるいは土佐の貧乏浪人の家から、一代にして巨万の富を得た成り上がり。弥太郎の生涯は、毀誉褒貶相半ばしている。
弥太郎を語る前に、避けては通れない男がいる。弥太郎より1歳年少の坂本龍馬。いわずと知れた幕末のヒーローだ。作家、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を、いまさら取り上げるまでもないだろう。
『龍馬は今、国民的英雄ですが、私たちの龍馬像は司馬遼太郎の小説で作られました。龍馬はすばらしい人物として描くには、引き立て役が必要。そこで、後に大金持ちとして成功した同郷の弥太郎が選ばれた。史実にヒントを得たフィクション(架空)です。』
2人の関係を語るのは、長年三菱や岩崎家の歴史を研究してきた三菱史アナリスト、成田誠一さん(68)。司馬作品や放送中のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で脚光を浴びている龍馬の影として、弥太郎は人々に知られるようになった。『それまで、『三菱を作った人』程度のイメージしかありませんでしたが、小説やドラマをきっかけに、弥太郎に興味を持っていただきたい。』
弥太郎は、天保5(1835)年、土佐国井ノ口村(高知県安芸市)で、貧しい地下(じげ)浪人の家に生まれた。地下浪人とは、生活苦から没落した武士。若き弥太郎が土佐で貧しい暮らしを余儀なくされていた頃、日本は岐路に立っていた。
寛永6(1853)年、黒船来航。アメリカ提督ペリーは、幕府に開国を迫り、情勢は混迷していた。そうした時代に呼応し、弥太郎は江戸に惹かれていく。土佐随一の儒教学者、岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた弥太郎は、江戸遊学のチャンスを掴む。ペリーが2度目の来日を果たし、ついに日米和親条約が結ばれた安政元年(1854)のことだった。
<吾れ志を得ずんば、再びこの山に上らず>
江戸へ旅立つ前、弥太郎は太平洋を望む裏山に登り、神社の門扉にその決意を墨書したという。(『岩崎弥太郎イ専』。
金も名もない弥太郎だが、志だけは高かった。だが、夢にまで見た江戸遊学は、実家のトラブルから中断される。郷里に戻った弥太郎が再び、土佐から飛び出て頭角を現すのは、慶応3(1867)年まで待たなければならない。弥太郎は三十路を二つ超えていた。
藩に登用された弥太郎が赴いたのは、外国人貿易商が集まる先進都市、長崎。土佐藩の商務組織『開成館長崎商会』の主任に命じられる。そこに登場するのが、長崎で活躍していた龍馬だった。脱藩した龍馬が罪を許され、立ち上げた貿易結社は土佐藩所管の『海援隊』となった。弥太郎は海援隊の世話も任されたことで、龍馬と運命的な出会いを果たす。
<午後坂本良(龍)馬来置酒>(『岩崎弥太郎日記』)
弥太郎の日記によると、6月3日に龍馬が来たとある。晴天。自身の素志を伝えたところ、龍馬は手をたたいて『善し』と称えたという。また、大政奉還で活躍することになる龍馬の上洛を長崎で見送った弥太郎は、6月9日にこう記している。
<余不覚流涙数行>
思わず泣いてしまったというところか。2人には不仲説もあるが、成田さんは、『2人の活動は違ったが、常に広い世界を意識していた点では共通していた。』とみる。
弥太郎も転機を迎える。明治2(1869)年、長崎から開成館大阪出張所へ異動するものの、明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。土佐藩は、その前に土佐人による私商社を立ち上げ、海運事業を引き継ごうと試みる。それが、『九十九商会』。明治6(1873)年には、経済官僚だった手腕を買われた弥太郎が社主となり、『三菱商会』と改称する。
弥太郎38歳。没するまでの12年間、怒濤のように駆け抜けるが、この時が後に強大な富を得る三菱財閥への船出だった。