高校を今春卒業予定の生徒の就職内定率は、昨年12月末時点で2年連続で悪化し、前年同期より7.5ポイント低い74.8%だったことが23日、文部科学省の調査で分かった。


 下落幅は、統計が残る昭和51年以来で過去最大。文部省は、『一昨年秋からの世界的不況の影響から脱し切れていない。』としている。


 調査対象は、今春卒業予定の高校生約107万5千人のうち、就職を希望している約18万3千人。このうち、約4万6千人が内定を得ていなかった。


 男女別では、男子は79.7%(前年同期比7.3ポイント減)、女子は68.5%(同7.8ポイント減)で、女子の方が下落幅が大きかった。学科別では、看護50.0%、普通65.1%などで低さが目立つ一方、工業88.4%、福祉80.6%、水産76.3%などでは、平均を上回った。


 都道府県別では、沖縄県の46.0%が最低で、北海道56.2%、宮城県62.9%などが続いた。高い順では、富山県91.0%、福井県88.7%、岐阜県87.2%など。


 『坂本龍馬』『中原中也』といった歴史上の偉人の商標権をめぐり、商売目的の登録を阻止しようとする自治体の間に、異なる動きが出ている。特許庁が昨年、歴史上の偉人をめぐる商標の審査を厳格にする方針を出したものの、受け止め方に差があるためだ。『郷土の偉人を、資本の論理に利用されたくない。』という思いは共通なのだが・・・。


 山口市は平成19年、歴史上の人物を多数商標登録している郷土とは無関係の企業が、市出身の詩人『中原中也』についても出願したことを把握。遺族の了承を得て、21年2月、酒類など5分野で『中原中也』 『中也』を出願し、市で商標管理しようとした。


 しかし特許庁は、1月、『市の独占使用は公益的な施策を阻害する恐れがある』などと出願を退けた。


 特許庁が厳しい判断をしたのには、同様のトラブルが絶えないことなどから、同庁が21年10月に、これまではっきりしなかった歴史上の人物の商標登録基準を明文化したことがある。同庁は、『出願の経緯・目的・理由』『出願人との関係』など6つの事情を総合的に考慮し、『公益を損なわないと判断されれば登録される。』とした。


 山口市は、『中也が『登録の認められない歴史上の人物』というお墨付きを得た。』と矛を収めた。


 山口市と逆の対応をしたのが、今年話題の『坂本龍馬』の出身地、高知県だ。


 『坂本龍馬』は、すでに高知県内の酒造会社など6件に商標登録され、さらに6件が出願中。『龍馬』では85件が登録済み、さらに66件が出願中だ。


 高知県は21年3月に商標登録を出願したが、山口市と同様の理由などで、昨年10月に退けられた。


 ところが県は、『法改正されたわけではなく、第三者が必ず登録できないわけではない。県が商標登録し使用基準を定めれば県の財産の龍馬を守れる。』とあくまで県で商標管理すると意見書を出して反発している。


 特許庁の指針と自治体の受け止め方について、歴史雑誌『歴史通』(ワック出版)の立林昭彦編集長(63)は、『歴史的人物名は国民全体の遺産のようなもので商標登録にそぐわない。どこかの自治体管理になるのも独占に変わりはない。』と指摘。


 また、商標審査に詳しい、弁理士の平野泰弘氏は、『私的な独占』と『公的な使用』をどこで線引きするかは今後の課題だ。』と指摘している。


 紀元前13世紀頃、古代エジプトの有力王(ファラオ)に即位したラムセス2世の載冠日にあたる22日、エジプト南部の古代遺跡、アブシンベル神殿には、多くの考古学者ファンや観光客が訪れた。同王が、建造した神殿は、この日と王の誕生日(10月22日)の年2日だけ、内部の聖域に太陽の光が届く設計になっているためで、前夜には青色や黄金色のライトアップが施され、荘厳な雰囲気を演出した。

 鳥居をくぐると急な階段が雪に埋もれて斜面になっている。手摺を頼りに200段以上を息を切らして登ったのも束の間、正面に現れた『神木』と呼ぶにふさわしい巨木のスケールに今度は息をのんだ。


 山形県鶴岡市の『山五十川の玉杉』。市中心部から車で約1時間。ひっそりとした熊野神社にその大木はある。遠方から見ると枝ぶりが半球状に見えることから、玉杉の名前がついた。高さおよそ40㍍、幹の太さ11㍍、樹齢約1500年。国の天然記念物に指定され、地元では、美しい風格から『日本一の玉杉』として親しまれている。


 玉杉は、現在も成長を続けて大きくなっているようだ。根元の周囲は22㍍あり、10年ほど前、近くにあった神社本殿が根の成長につれて傾き、後方へ移築されたという話もあるくらいだ。


 頭上へ目を移すと太い枝が四方に、下から上へ順々に伸びている。まるで阿修羅像の手のように広がる枝が玉杉のバランスを保っているよう。大雪が降ると無駄な贅肉を落としたかのように、根元の周囲には折れたか細い枝が転がっていた。


 山五十川玉杉保護会の佐藤甚一郎会長(70)は、『戦後に植樹された周辺の若い杉の木が周りを囲むことで、保護され成長しているのでは。』と分析する。年1回、樹木医師の診断を行なっていて、『木の持つ風格を大切に守ってあげないと。』と話す。


 地元の人々が、この木をあがめてきた。玉杉を中心に南北の集落では、年に1度、幹に巻くしめ縄を交互に交換する伝統が先祖代々、受け継がれている。


 真冬のこの時期、玉杉を訪れる人はほとんどいない。太陽が沈み周囲が暗く寒さが身にしみる頃、横殴りの雪が玉杉に吹き付けた。年輪を重ね、雪に耐えて生きている姿は、『神が宿る木』に見えた。



 喧噪の隙間を縫うように、東京には江戸から継がれる庭園が点在する。そのなかで、清澄庭園、六義園(りくぎえん)、旧岩崎邸庭園の名園はいずれも明治初め、ひとりの男が手に入れた広大な土地が礎になっている。


 岩崎弥太郎―。幕末の志士にして、日本を近代化に導いた実業家。あるいは土佐の貧乏浪人の家から、一代にして巨万の富を得た成り上がり。弥太郎の生涯は、毀誉褒貶相半ばしている。


 弥太郎を語る前に、避けては通れない男がいる。弥太郎より1歳年少の坂本龍馬。いわずと知れた幕末のヒーローだ。作家、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を、いまさら取り上げるまでもないだろう。


 『龍馬は今、国民的英雄ですが、私たちの龍馬像は司馬遼太郎の小説で作られました。龍馬はすばらしい人物として描くには、引き立て役が必要。そこで、後に大金持ちとして成功した同郷の弥太郎が選ばれた。史実にヒントを得たフィクション(架空)です。』


 2人の関係を語るのは、長年三菱や岩崎家の歴史を研究してきた三菱史アナリスト、成田誠一さん(68)。司馬作品や放送中のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で脚光を浴びている龍馬の影として、弥太郎は人々に知られるようになった。『それまで、『三菱を作った人』程度のイメージしかありませんでしたが、小説やドラマをきっかけに、弥太郎に興味を持っていただきたい。』


 弥太郎は、天保5(1835)年、土佐国井ノ口村(高知県安芸市)で、貧しい地下(じげ)浪人の家に生まれた。地下浪人とは、生活苦から没落した武士。若き弥太郎が土佐で貧しい暮らしを余儀なくされていた頃、日本は岐路に立っていた。


 寛永6(1853)年、黒船来航。アメリカ提督ペリーは、幕府に開国を迫り、情勢は混迷していた。そうした時代に呼応し、弥太郎は江戸に惹かれていく。土佐随一の儒教学者、岡本寧浦(ねいほ)について学んでいた弥太郎は、江戸遊学のチャンスを掴む。ペリーが2度目の来日を果たし、ついに日米和親条約が結ばれた安政元年(1854)のことだった。


 <吾れ志を得ずんば、再びこの山に上らず>


 江戸へ旅立つ前、弥太郎は太平洋を望む裏山に登り、神社の門扉にその決意を墨書したという。(『岩崎弥太郎イ専』。


 金も名もない弥太郎だが、志だけは高かった。だが、夢にまで見た江戸遊学は、実家のトラブルから中断される。郷里に戻った弥太郎が再び、土佐から飛び出て頭角を現すのは、慶応3(1867)年まで待たなければならない。弥太郎は三十路を二つ超えていた。


 藩に登用された弥太郎が赴いたのは、外国人貿易商が集まる先進都市、長崎。土佐藩の商務組織『開成館長崎商会』の主任に命じられる。そこに登場するのが、長崎で活躍していた龍馬だった。脱藩した龍馬が罪を許され、立ち上げた貿易結社は土佐藩所管の『海援隊』となった。弥太郎は海援隊の世話も任されたことで、龍馬と運命的な出会いを果たす。


 <午後坂本良(龍)馬来置酒>(『岩崎弥太郎日記』)


 弥太郎の日記によると、6月3日に龍馬が来たとある。晴天。自身の素志を伝えたところ、龍馬は手をたたいて『善し』と称えたという。また、大政奉還で活躍することになる龍馬の上洛を長崎で見送った弥太郎は、6月9日にこう記している。


 <余不覚流涙数行>


 思わず泣いてしまったというところか。2人には不仲説もあるが、成田さんは、『2人の活動は違ったが、常に広い世界を意識していた点では共通していた。』とみる。


 弥太郎も転機を迎える。明治2(1869)年、長崎から開成館大阪出張所へ異動するものの、明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。土佐藩は、その前に土佐人による私商社を立ち上げ、海運事業を引き継ごうと試みる。それが、『九十九商会』。明治6(1873)年には、経済官僚だった手腕を買われた弥太郎が社主となり、『三菱商会』と改称する。


 弥太郎38歳。没するまでの12年間、怒濤のように駆け抜けるが、この時が後に強大な富を得る三菱財閥への船出だった。


 名優モーガン・フリーマン(72)アメリカ・ハリウッドで取材に応じた彼は、『この映画は僕のキャリアで起きた最も素晴らしいことの一つだ。』と特別な思いを語った。


 マンデラに初めて会ったのは、ヨハネスブルグの自宅だった。『その数年前に書いた『自由への長い道』が出版され、『映画になったらどの俳優に演じてほしいですか?』とマスコミに聞かれたとき、彼は僕の名前を挙げたんだよ。』と振り返る。


 この作品での出演は、実現しなかったが、すぐに、マンデラと、1995年に南アフリカで開かれたラグビーワールドカップ杯の奇跡の物語を描いたノンフィクション(ジョン・カーリン著書)の映画化が持ち上がる。そして企画をクリント・イーストウッド監督に持ちかけたのが彼だった。


 『脚本を送ったら、クリントはやりたいと言ってくれた。この物語は、マンデラがどんなふうに仕事をするのか、それがたっぷり観られる。僕にとってもクリントにとっても、パーフェクトな素材だった。』


 彼は製作総指揮も務めたが、イーストウッドの撮影に口を出すことはなかったという。『クリントとはそういう仕事の仕方はできない。クリントを獲得できたら、それでその仕事は終わりだよ。』と笑う。


 映画の大きな見所の一つに、彼の演技がある。マンデラ本人と映画の彼を見比べれば、そっくりな姿に気づくはずだ。『いろんな人に僕であることを忘れたと言われたよ。それこそ僕の求めるものだ。』


 イーストウッド監督作品に出演するのは3本目。『許されざる者』(1992年)『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)の過去2作品では、イーストウッドと共演し、いずれもアカデミー賞作品賞を獲得した。彼自身は、『ミリオンダラー・ベイビー』で、初の助演男優賞にも輝いた。


 『『許されざる者』では、クリントと会ったばかりだった。だけれども、現場で本当に気が合った。2回目はそれより良かった。過去に一緒に映画を作っていて、お互いを知っているんだからね。今回はもっと良い。だって僕らの間にはもっと歴史があるんだから。』


 今年のアカデミー賞でも主演男優賞にノミネートされた。期待は膨らむが、『クリントは皮算用はやめようと言うよ。そうなったら嬉しいけれども、そうならなくてもいい仕事はしたよ。』と笑顔でかわした。


 取材当日、ハリウッドには『映画の都』にふさわしい撮影日和の青空が広がっていた。広大な敷地を誇る映画会社『ワーナー・ブラザーズ』のスタジオ。ポロシャツにジャケットのラフな格好で現れたクリント・イーストウッド監督は、取材陣に寛いだ表情で話し始めた。


 『スポーツだけの映画は作りたくない。僕が魅了されたのは、ネルソン・マンデラが、勝つチャンスがほとんどないチームに注目してベストを尽くそうと思わせるためのインスピレーションを与えたという事実だ。その努力と独創的な側面にね。』


 1994年、大統領に就任したマンデラは、アパルトヘイト(人種隔離政策)廃止後の国民を団結させるため、ワールドカップ杯で自国代表チーム(愛称・スプリングボクス)の応援を呼び掛ける。下馬評を覆しての初優勝は歴史が示す通り。監督は、その史実に誠実に向き合うことで、事実に込められた真の感動をスクリーンに再現してみせた。


 『時に真実はフィクションよりも奇妙なものだ。フィクションなら『(映画だから)最後に勝つんだよね』と思うだろう。だけど本当にそうなった。史実に正確に描く必要がある。勝手に作り上げたものを混ぜるなんてできない。』


 撮影は、南アフリカのケープタウン沖に浮かぶロベン島でも行われた。マンデラが政治犯として27年間も収容された刑務所があった島。監督自身も1日を過ごした。


 主将のフランソワ・ピナール(マット・デイモン)らラグビーチームの選手が妻や恋人を伴って島の独房を見学するシーンが印象的だ。あまりの狭さに言葉を失うフランソワ。そこに、イギリス詩人の作品、『インビクタス』(ラテン語で『征服されていない』の意)を朗読するマンデラ(モーガン・フリーマン)の声が重なる。マンデラが長い獄中生活で心の支えにした詩。大観衆の声援を受けて戦う迫力の試合シーンと並ぶ感動的な場面だ。


 マンデラ本人には昨年3月、ケープタウンで会ったという。『刑務所の看守たちを大統領就任式に招待までしたんだよ。刑務所から出た途端、戦争を始めてやろうと思う方が人間の本性だろう。だけど、彼は仲直りに価値を見い出したんだ。』


 アカデミー賞監督賞に2度輝いた巨匠は、今年5月で80歳を迎えるが、映画への情熱は衰えない。


 『まだ仕事をしているんだなと思うことはある。今日も俳優組合の新しい会員証が届いたけれど、『1954年入会』とあるじゃないか。そんなに長いことやってきたのかと思ったよ。もう引退すべきだな(笑)』


 すでに次作も撮影中だ。『自分が楽しいと感じる仕事を幸運にもやらせてもらえるのだから、ずっと続けてやるだけさ。』と微笑んだ。


 15~16世紀に活躍したイタリアの巨匠、レオナルド・ダヴィンチの作品か否かで長年、論争となり、最近になって精巧な模写と鑑定された女性の肖像画が、28日までに、ニューヨークの競売で153万8500㌦(約1億3800万円)で落札された。


 落札者は、明らかにされていない。絵は、パリのルーブル美術館にあるダヴィンチ作品。『婦人の肖像』と同じ図柄。


 最新技術で絵の具などを鑑定した結果、ダヴィンチの時代の後、1750年代までに描かれたと判断された。


 最新の3D(立体)映像が話題のアメリカSF映画『アバター』(ジェームズ・キャメロン監督)の勢いが止まらない。世界興行収入は、同じキャメロン監督の『タイタニック』(1997年)を抜き、最高記録を更新。興行は1日時点で20億400万㌦(約1800億円)に達している。『タイタニック』の興行収入は、18億4290万㌦は1年半かけて達成したが、『アバター』は公開後わずか39日という驚異的なスピードで塗り替えた。史上最高のヒットを生んだ要因は・・・・・・。


 先月29日、東京都内で開かれた『日本映画製作者連盟』の記者会見。報道陣の質問に、国内映画大手各社の社長たちが、『アバター』の感想を語った。松竹の迫本淳一社長は、『いくつかの要素が重なっている。キャメロンの久しぶりの大作だったこと、3Dというだけじゃなく、中身が面白かったこともある。ただ、3Dでそこがさらに強調された。』と推測し、東宝の高井英幸社長は、『3Dが市民権を得た。』と評価した。2D(通常の映像)版でも、上映されているが、ヒットの大きな要素に3D映像があるという見方だ。


 『アバター』は、特注のデジタル3Dカメラで撮影された。キャメロン監督は、『昔の3Dは、物が飛んでくる効果が主流で、かえって観客は映画館にいることを意識した。今回の3Dはこちらから映画の世界に入っていくための『窓』。その場にいる臨場感が味わえる。』と、説明する。


 大きな特徴は、従来とは次元の異なる画面の奥行きの深さ。『観るのではない。そこにいるのだ。』という宣伝文句が、この革新的な技術の本質を言い当てている。観客は映画の世界に自身が紛れ込んだような感覚を味わうだろう。


 3Dの人気を示すデーターがある。配給元の20世紀フォックス映画によると、国内の公開スクリーン数は約800で、このうち3D上映は約280。しかし、全体の観客の割合では、3Dが79%と圧倒的だ。同社の宣伝担当は、『2Dで観た客が改めて3Dを観にいっている。』と、リピーターの多さを指摘。キネマ旬報映画総合研究所の掛尾良夫所長は、『映画にはあとでDVDやテレビで見られる側面がある。しかし、この『アバター』は、映画館で今観ておかないと、その魅力を味わえない。いつもなら、数ヶ月後にレンタルでDVDを借りて観ていた客層を劇場に呼び込んでいる。』と分析する。


 国内興行収入は、3日時点で、86億円に達した。現在112の国と地域で公開されており、『世界記録更新でさらにエンジンがかかってきた。』(宣伝担当)。どこまで記録が伸びるのか、予想が立たない状況だ。




 シンガー・ソングライターのASKA(51)が挑戦を続けている。昨年1月に、『CHAGE and ASKA』としての活動の無期限休止を発表して以降、初となるソロアルバム『12(トォエルブ)』を10日にリリース。22日付オリコン週間アルバムランキングで初登場5位となるなど話題を呼んでいる。ASKAは『常に今の時代の声で歌っていたい。』と力を込める。


 2人での活動を休止した理由は、『CHAGE and ASKAでいながらソロ活動をしていると、周りの人たちがどう動いていいかわからないと思ったから。』だという。それでも、2人でまたステージに立つ可能性もほのめかす。『休止すると言ってしまった以上、短い間にくっつくわけにはいかない。でも、2人でまた歌わなければいけなくなってしまうと思うんです。』今は、ソロ活動に力を注ぐ時期だと位置づける。10日にリリースしたアルバム『12』には、『PRIDE』や『WALK』といった平成元年に発表した曲など12曲を改めて収めた。『前の曲を聴きながらレコーディングをした。昔の精一杯の気持ちは覚えている。皆に(曲が)どういうふうに認識されているかを意識しながら、そのイメージを壊さないように作りました。』と言う。


 平成元年はデビュー10周年の年で、ASKAが転機を迎えた時期とも重なる。『今しかない。』と、ロンドンに移住し、自分の楽曲を分析する機会に恵まれた。


 この移住がきっかけで出会った中国人に勧められ、中国でのコンサートも検討した。手始めに中国に視察に行ったが、『日本で活動がうまくいっていれば、アジア圏のなかでも聴かれているという認識でいたけれど、日本の曲なんてほとんど流れてはいなかった。たたきのめされた。』


 それでも挑戦は続けた。6年にはようやく香港、シンガポール、台北での公演に漕ぎ着け、『こうやれば当たるだろうと思ったのをそのままできた。』と振り返る。12年には韓国にも活動を広げた。


 『元気かな、と思える人が海外にいるだけで、国の見方が違ってくる。政治で物事を解決していくと『線』ができるが、民間交流には線がない。民間交流なくして、国は交流できない。』と力を込める。


 海外で経験を積み重ねた今の歌声は、10周年のときの歌声とは異なる魅力がある。『若いときも、いろいろ考えながらやっていたつもり。でも今は、あのころに比べたら方法論が幾通りもある。経験によって若さをねじ伏せることができるのかもしれませんね。


 いつかCHAGEと2人でまた・・・