一毛録 - Genkairo Official Weblog -

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古美術 玄海樓店主のきまぐれブログ

ようこそ 玄海樓店主ブログへ。

古き時代より受け継がれてきた美術品の数々・・・。
その一つ一つが様々な人々の眼を、手を経て今もその輝きを失わない。
佳品と呼ばれるような・・・そんな品々を後世へ引き継いでゆく。流行や表面的な評価には影響されません。
本当に信用できる美術商を貴方は御存知ですか?

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古美術・玄海樓の店主が徒然に書き綴るウェブログです。

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古美術・玄海樓 公式ブログ「一毛録」 管理人・野元 淳

定説。

 

一般に認められ、確定的であるとされている說。

疑いのない事、決まっている事、をこう呼びます。

 

いつの世も

この定說が都度覆されてきたわけで、

かといって

覆すのは容易い事ではありません。

 

例えば「古筆」の話。

「THE古筆」といえる

第一、筆頭の且つ最高峰の

「高野切」。

 

傳承筆者は紀貫之となっていますが、

貫之の生きた時代は西暦882年ー946年とあることから

書寫された時代とは合わないことが分かっています。

 

これには書風からみて

第一種、第二種、第三種、と三種類の筆跡があり、

それぞれ行經(行成の男)、兼行(ほぼ定說)、公經といわれていますが、

確証はありません。

ただ、書写されたのは西暦1045~1050年頃とされ、

上記三名の時代と合っています。

 

いわゆる二十卷ある古今集を

三人で書寫した、寄合い書きだといわれています。

 

というならば、例えばA、B、C、の三人で書寫する場合、

上卷の途中までA、中ほどをB、下巻~巻末をC、

と分担するのが自然。

 

しかしながら、

実際には

卷第一、第九、第十、第十一、第十二、第二十、の筆者がA(第一種)、

卷第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八、の筆者がB(第二種)、

卷第十三、第十四、第十五、第十六、第十七、第十八、第十九、の筆者がC(第三種)、

といわれています。

 

ただ、これにも少し異論があり、卷によっては部分的に異筆があるとの意見があります。

即ち、同じ卷でも別筆の寄合い書きである可能性がある、ということなのです。

 

無論、一人でこの膨大な量の書寫するのは無理だとしても、

三人で順番に三種、と一筋縄ではいかないのがこの世界。

 

まずはAさん(第一種)がおそらく一番高貴な方であったのでしょう、

最初の卷第一から書き始め、そして

Bさん(第二種)には卷第二から書くよう指示(誰からの指示か解りませんが)、

だいぶおいてからCさん(第三種)に卷第十三から書くよう指示・・・、と

何となくこんな感じかと思いますが、

いやいや、何故Aさんは卷第九から書き、Cさんは卷第十三?

 

謎は深まります。

 

 

と本題はここから。

 

この高野切第三種と同筆であろうとされる筆跡の古筆切に

粘葉本倭漢朗詠集(三の丸)、元暦校本萬葉集第一(東博)、近衞本倭漢朗詠集(陽明文庫)、

蓬莱切、法輪寺切(行成)といったものがあります。

また、「伊豫切」と呼ばれる傳行成の倭漢朗詠集があります。

この伊豫切の中にも筆跡が三種類あるとされ、

それぞれ第一種、第二種、第三種、あるといわれます。

もと粘葉裝の冊子本であったものを、襲綴の上下二冊本に改裝されたとされます。

大正十三年に京都において松平家の賣立で世の中に出たという訳です。

 

その中の第一種の筆跡が高野切第三種の筆者と同筆であると考えられています。

いわゆる飛び曇がある料紙の手、です。

 

では、その後の第二種、第三種の筆跡はどうなるのか。

 

第二種については様々な意見がありましたが、

第三種については模寫(補寫)であるということが定說となっていました。

それをだれも疑わず、後世の寫しであると。

 

最近、この第二種について、

料紙の年代測定の結果、

書寫年代は平安期に収まることが判明しました。

が、高野切の書寫年代から100年以上後の時代。

ただ、単なる後世の寫しではありませんでした。

 

今年、手に入れた伊豫切。

紛れもない第三種の品ですが、

こちらにある事実が・・・。

當該品には糊代の跡があり、冊子であったことを裏付ける証拠があります。

 

ところが、

何と超有名な某出版社の発行影印本に掲載された箇所と

同じ内容ながら影印と實物の筆跡が違っているのです。

 

これはどういう訳か・・・。

 

模寫とされた下卷の中には

確かに模寫があり、流布しているのも事實。

 

しかし、

傳來には

「原本は一定の段階で失われ、代わりに後世の模寫によって窺い知ることができる」

とあります。

 

模寫には原本があってこその寫しであり、見ながら寫したに違いありません。

これが、「模寫のまた模寫」が存在し、

その最後の模寫の影印が掲載された、と考えねばなりません。

補寫部分はしばらくの間市井には現れなかった、ともあります。

 

まだまだ定說は書き換えられる、

年代測定が望まれる・・・、

 

そんな品があります。

 

これからも、

柔軟な思考のもとに

眼を養い、探求して行かねば・・・

 

そう思うこの秋の

野元でした。