昨日前回からの続きです。前回を読みたい方はこちらをクリック。
あなたは自分のオフィスに座っている。そして六人の部下を使っているとしよう。
ここで誰か一人を呼びだし、こう命令してみるのだ。
「百科事典を見て、コレッジオの生涯について短いメモを書いてきて欲しい。」
さて、部下はすぐに「分かりました。」と言って仕事に取りかかるだろうか?
おそらくあなたの状況では、そうはならないだろう。
たぶん、どんよりとした目であなたを見つめ、こんな質問をいくつか聞いてくるだろう。
「コレッジオって誰ですか?」
「どの百科事典を見ればいいんでしょうか?」
「百科事典のどこに載っているんですか?」
「私はそのために雇われてるんですか?」
「ビスマルクとは関係ないんですか?」
「チャーリーにやらせたらどうですか?」
「その人は故人ですか?」
「どれくらい急いでやればいいんですか?」
「本を持ってきますから、ご自分でなされたらどうですか?」
「いったい何が知りたいのですか?」
そして、賭けてもいいが、あなたが以上の質問に答え、いかにして資料を探すのか説明し、なぜそれが知りたいのかも話した後に、部下は部屋を出て、他の部下の助けを借りながら、“ガルシア”を探そうと試みた後で、引き返して「そのような男は存在しません。」と報告するだろう。もちろん私が負けるかもしれない。しかし、平均の法則によれば、私は負けはしない。
あなたがもっと賢明であれば、「部下」に対して「コレッジオ」は「K」じゃなくて「C」の項にあるんだよと付け加えることはせずに、にこっと笑って「気にするな」と言って自分で探しに行くに違いない。
こういった自分から行動を起こさず、道徳心のかけらも持ち合わせず、なんのやる気も持たず、みずから進んで気持ちよく頼まれごとを引き受けようとしないなどという行動をするから、真の福祉社会がいつまでたっても実現しないのだ。
自分のためにだって行動を起こさないのに、そんな人たちがみんなのために何か行動を起こすのだろうか?
棍棒でむりやり行動させるナンバー2が必要になるだろう。
土曜の晩にはクビに対するおそれから、実におおぜいの社員が職場にとどまらざるを得ないのである。
速記者を募集しても、十人に九人はスペルも綴れず、句読点の打ち方も知らず、しかもなぜそれが必要なのかすら考えていないのだ。
そのような男にガルシアへの手紙を書かせることができるだろうか?
「あの簿記係、いるでしょう。」ある大工場で工場長がこう言ってくる。
「うん、それがどうした?」
「えぇ、あいつ、計算は立派にやるんです。ですが、あいつを街に使いをさせると、だいたい要件は終わらすんですが、たまに、四軒酒場に寄り道して、大通りについた頃には、何を言われたのか忘れちまってることがあるんですよ。」
こんな男に、ガルシアへの手紙を持っていくよう頼むことができるだろうか?
私たちは最近、「非人間的な工場にて虐《しいたげ》げられた社員」や「すばらしい雇い主を捜す浮浪者」に対する、いささか感傷的な同情の念をよく耳にする。
それにはしばしば、力ある人間に対する厳しい言葉がたくさんくっついていることが多い。
それに対して、雇い主に対してそのように言われることは全くない。
彼らが薄汚いろくでなしに知的な仕事をさせようとむなしい努力を続けた末に、実際の年より老けてしまったり、何もしないのみならず、背中を見せるとサボりだすような人の「助け」を当てにして長いこと我慢強く奮闘しているのに、である。
あらゆる店や工場の中で、無駄を取り除こうという努力が日々続けられている。
雇い主は、仕事での利益を最大限上げるなどという能力を持ち合わせていない「助っ人《すけっと》」を日々追い出して、代わりの人を雇い続けている。好景気の時でさえこのような努力が続けられているのだから、万が一景気が悪くなって仕事がなくなってきたら、よりいっそう人員整理が激しくなり、能力を持たない下らぬ輩は職を失い、二度と仕事に就けなくなってしまうのだ。
それが適者生存というものなのだ。
自己の利益を追い求めんがために、あらゆる経営者がベストを尽くそうとする、これすなわち、ガルシアへの手紙を運べる人を雇い続けることにつながるのだ。
私は最近、才能あふれる紳士と知り合った。