ベルリン最後の日の午前中は、大学の国際課を訪問して9月の集中講義について相談させていただき、引き続きご協力をいただけることになりホッとしました。

 これで今回の出張の目的はすべて完了。あとは夕方7時のポーランド航空に乗るだけです。そこで、数日前に集中講義の講師をお願いするドイツ人のNPO職員の方が教えてくれた「記念館」に行く時間があることに気づきました。そのドイツ人は私と同じくらいの年齢で、大人になるまでドイツは東西に分かれており、その方は西ドイツの街に生まれ育ちましたが、東ドイツで何が起こっているのかは断片的にしか伝わってこず、厚いカーテンが東西ドイツの間にあったようだったそうです。そしてたまに、東から亡命に成功した市民から東側で起こっているおそろしい思想弾圧の様子が伝えられ、なんとかして東ドイツが自由にならないものかと西側市民は話していたのでした。

 そして1989年、ソ連が崩壊し、ソ連の衛星国だった東ヨーロッパの国々が次々と民主化され、東ドイツも例外ではありませんでした。

 「ベルリンの壁」は、東ベルリンが「西ベルリンから東ベルリン市民を守る」、という名目で1961年に築いたものですが、1989年11月9日、偶然に東西ベルリンの国境が解放され(詳しくはウィキペディアなど参照)、壁は崩壊します。そして、東ベルリンで行われていたことが明らかになり、その非人間性に旧西側の人たちは震撼させられました。

 共産主義の国では、思想・表現の自由は無いと言っても良いでしょう。東ドイツでも、秘密警察(Stasi=シュタージ)が市民社会の隅々まで監視し、共産党政権を批判したり、愚痴を言ったりしただけでも逮捕され、政治犯収容所に収容されてしまったのです。秘密警察は市民の思想を取り締まるために多くの市民をスパイとして協力させました。そのため1980年代には市民の50人から60人に一人はスパイだったのだそうです。

 旧東ベルリンの政治犯収容所、”Hohenschonhausen”(https://www.stiftung-hsh.de/)は、東ドイツにたくさんあった収容所の一つで、記念館として一部当時のままの施設が残されています。

 地下鉄とトラムを乗り継いで記念館に到着すると、施設を囲む高い壁が目に入りました。高い壁の上には監視塔が。私は、英語によるガイドツアーに申し込んで中に入りました。

 

 ガイドさんはこの施設で唯一のアメリカ人男性で、奥さんがドイツの方でそのお父さんがかつて施設に収容されていた縁でガイドになったそうです。

 この施設は、第二次世界大戦中はドイツ軍の食品製造工場だったのですが、敗戦後にソ連軍が監獄として使用を開始し、最初の囚人の一人は14歳の女子中学生だったというのが衝撃的でした。戦後、東ドイツでは共産主義教育が始まり、学校ではスターリンの写真が掲げられていたのですが、その少女はたまたま持っていた口紅でスターリンの顔にいたずら描きをしてしまい、それが見つかって数か月独房に入れられたのだそうです。たった14歳の少女が!

 その当時使われていた独房が残っています。地下で、窓はなく裸電球が24時間つけっぱなしです。ガイドさんは言います。「裸電球のスイッチは牢獄の中にはありません。夜眠らせないためです。牢屋は窓もなく電球がつけっぱなしなので、この中にいると時間の感覚がなくなります。ベッドは木の板で、もちろん枕も布団もありません。トイレはバケツが置いてあるだけです」こんなところに入れられた人たちの恐怖、絶望はどれほどのものだったか。

 

 

 

 ガイドさんはさらに地下の懲罰房に向かいました(つづく)。