ネズミは体長10センチくらいで、体全体は白く、チョロッと肌色の細い尾っぽがついていました。実は私が宿泊したホテルはアパートメントタイプで、部屋の中にミニキッチンと洗濯機がついています。ネズミは、キッチン方面から走ってきて洗濯機の下に潜り込みました。


一種のパニックに陥ってしまった私は、よろよろとエレベーターに乗ると、レセプションに行き「ネ、ネ、ネズミが部屋に出ましたぁ!」と叫びました。ホテルマンは目を大きく見張って「ええっ!」と驚いて見せました。私は「これが初めてではないでしょう?これまでにもネズミが出たことがあるでしょう?」と問い詰めました。


しかし、受付の男性は「いえ!これまでに一度もありませんでした!」と強く主張しました。


ネズミをホテルの部屋で見たのは初めてでしたが、この短い間に私の頭の中ではいろんな考えがぐるぐると回りました。あのネズミは、私の部屋だけに住んでいるわけはありません。洗濯機には必ず排水のためのホースがついていて、その汚水を流す配管があるはずです。その配管を伝って、ネズミはこのホテルの部屋を自由に行き来しているのではないでしょうか。


私の脳の記憶の引き出しから出てきたのは、昔々渋谷で働いていたころ、山手線の渋谷駅で電車を待っていたら、線路の向こうに大きなドブネズミが出てきて、とことこと歩き回っていた光景です。その時のネズミは、いわゆる「ドブネズミ」といいますか、大きくて黒くて、いかにもふてぶてしくて悪そうなやつでした。


私のホテルに出てきたのは、手のひらサイズで毛の色も灰色で「汚い」という感じではありませんでした。


しかしたとえ小さなサイズであっても、ホテルの部屋にネズミが出てくるなどというのは信じられないことです。おそらく、アパートメントタイプであるため、いろんな方が長期間滞在することが考えられます。その際、食べ物を出しっぱなしにしている人も多いのではないかと思います。ネズミたちは、洗濯機の配管を伝い、食べ物のにおいのする部屋を夜ごと訪れているのでしょう。


レセプションの男性はいったん奥に引っ込むと、出てきて「まことに申し訳ございませんが、お部屋を変えることで対応させていただきます」と、部屋を変えてくれました。


シングルルームからダブルルームに変わり、部屋も広くなりましたが、今にも部屋の隅からネズミが飛び出してくるのではないかと、気が気ではありません。


その時、私の脳の記憶の引き出しからもう一つの光景が取り出されました。


数年前にミュンヘンに行った際、夜、私一人で駅近くのバーにお酒を飲みに行ったのです。ホテルに帰る際、建物の間の小さな道で、ピンポン玉ほどの大きさのホコリの玉のようなものが右に、左に動いているのを見つけました。私は最初「ホコリだまり」が風に吹かれて動いているのかと思ったのですが、近くでよく見るとそれはネズミでした。


小さな、ピンポン玉ほどの大きさのネズミ、尻尾も短くて細いけどちゃんとあります。それが、ビルの間を走り回っているのです。道路の端に金属板の覆いがあるので、その下に隠れては顔をだし、ちょろちょろっと走ります。そのかわいいこと!


あまりのかわいさに、携帯電話のカメラを構えましたが、あいにく近づきすぎたせいか私の気配を感じた「マリネズミ」(本当の名前は知りません。私が勝手に名づけました。いつか、本当の名前がわかるといい、と思っています)は、それきり出てくることはありませんでした。


渋谷のホテルのベッドに横になり、私は「あの『マリネズミ』はかわいかったじゃないか。ディズニーのミッキーマウス、トムとジェリーのジェリーも、かわいいネズミじゃないか」と自分に言い聞かせました。


しかし、いくら「かわいいネズミもいる」、と思っても、さっき見た現実のネズミの映像は頭の中から去りません。


「トムとジェリー、仲よくケンカしな!トーム、トムトムニャーオ、ジェリー、ジェリー、ジェリー、チュウ!」うわあ!部屋の隅で「チュー」って鳴いたらどうしよう!


子供のころ見ていたトムとジェリーの漫画の歌が頭の中をぐるぐるとまわります。


今この瞬間にもネズミが部屋の中を走り回っているのではないか、と思うと、ベッドで横になっていても気になって仕方ありません。


結局、うつらうつらしたまま夜が明けました。窓の外が明るくなってきたときは、心底ホッとしました。


チェックアウトの際、マネジャーらしき男性が出てきて「本当に申し訳ございませんでした。お恥ずかしい限りです」と、一泊分の料金を返してくれました。私が「あのネズミはたぶん洗濯機の配水管を出入りしていると思いますよ」というと、マネジャーは「おっしゃるとおりです。今日さっそく業者を呼び、すべての部屋の洗濯機の排水ホースの口のところをふさぐ工事をします」とおっしゃったので、「それを聞いて安心しました」とお伝えしてホテルを去りました。


私はこのホテルを「じゃらん」で予約しましたので、チェックアウトした後、「お客様の声」を書きませんか、というメールが「じゃらん」から来ました。


しかし、「部屋にネズミが出た」などと書いたら、このホテルはつぶれてしまうかもしれません。「駅に隣接」「大手ホテルチェーンのホテル」「つい最近竣工」が売りのホテルです。みなさんびっくりして誰も泊まりたくないでしょう。それに、結局宿泊料金を返してもらった、などと書いたら、よからぬことを考える人も出てくるかもしれません。結局、何も書きませんでした。


いやはや。日本でこんな目に遭うとは。しかし、私の騒ぎでこのホテルで今後ネズミに驚かされる人がいなくなれば、私の経験も無駄ではない、ということでしょうか。いや、ほんとにいいホテルなんですよ。新しいし広いし。どのホテルだったかは、このブログには書きません。


しかし、こんなにいろいろな経験する人、ほかにいるのでしょうか・・・。

私くらいでは?ま、そういう人生、ということで・・・。


ウサギ