▶秋風や模様のちがふ皿二つ     

 

掲句は原石鼎(はらせきてい)作。

たまたま読んでいた中村千久著『俳句と遊ぼう』に収録されていました。

この本はクイズ形式のため、句の一部が空白になっているのですが、

石鼎の句は”模様”のところが空白になっていて、

下記のなかから選べというのですが…、
1、厚さ   2、売値   3、模様  4、汚れ

さあ、いかがでしょう。

もしこの句をご存じなかったら、どれを選ばれたでしょうか。

 

 

実は数年前、私は初めてこの句に出会ったのですが、

どこがいいのか、さっぱり分からなかったので焦りました。

そういう意味で記憶に残っている句なんです。

というのは、私は骨董趣味でお皿を一枚買うなんてよくあることで、

それは主に豆皿の類なんですが、だから模様がちがうなんてごく普通。

「それがどうしたん?」って思いました。

 

謎が解けたのは、『増殖する俳句歳時記』の清水哲男さんの鑑賞を読んでから。

■(この句は)俳壇では、つとに名句として知られている。どこが名句なのか。まずは、次の長い前書が作句時(大正三年・1914)の作者の置かれた生活環境を物語る。「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去つて仮の宿りをなす」。文芸を志すとは、父母を裏切ること。そんな時代風潮のなかで、決然と文芸に身を投じた作者への喝采が一つの根拠だろう。ちなみに、石鼎は医家の生まれだ。第二の根拠は、二枚の皿だけで貧苦を表現した簡潔性である。模様の違う皿が意味するのは、同じ模様の小皿や大皿をセットで買えない貧窮生活だ。しかも、この二枚しか皿を持たないこともうかがえる。そして第三は、皿の冷たさと秋風のそれとの照応の見事さである。詠まれているのは、あくまでも現実的具体的な皿であり秋風であるのだが、この照応性において、秋風のなかの二枚の皿は、宙にでも浮かんでいるような抽象性を獲得している。すなわち、ここで長たらしい前書は消えてしまい、秋風と皿が冷たく響き合う世界だけが、読者を呑み込み魅了するのである。この句には飽きたことがない。名句と言うに間違いはない。『定本石鼎句集』(1968)所収。

 

いや~すばらしい、見事な鑑賞。

貧窮生活ゆえの「模様の違う」皿なんですね。

と、一旦納得していました。

 

 

ところがです。

このクイズ本の中村千久さんの鑑賞は異なるのです。

さらにドラマチックな展開で…。

こうなのですよ。↓

■この句の背景には作者の石鼎が引き起こした恋愛事件があります。駆け落ちをした二人は鳥取県の米子で追っ手に捕まってしまい、女性だけが連れ戻されることになったのです。その時、生涯の思い出にしようと、使っていたお皿を一つずつ手許に残したのです。形見となった皿を手にした作者が詠んだ句。「秋風」が哀れを誘います。

 

わぁ、驚きました。

貧窮には違いないのかもしれませんが、

彼女の面影を偲んでの句というなら、

流す涙もちょっと甘かったりして…。

 

いや、その前に、実際のところどうだったのか気になりますよね。

で、これに偏ったワードで検索してみると、、、

まぁ、出てくるんですよ。いろいろと。

石鼎氏は大変な美男だったそうで、女性のほうがほっとかなかったとか、

恋愛事件も一つや二つではなかったとか。

(※太宰治を彷彿とさせますね)

 

で、これをお読みくださっている皆様。

この鑑賞は好みでいきましょう。

どちらをお望みでしょうか。

私? 私はもちろん後者です。

 

 

こういうの、やっぱり秋が似合う。

今ふうの”熱い秋風”のお話でした。