ブロガーさんの記事を拝読していてハッとしました。
俳句の季節ではもう「晩夏」なのだと。
梅雨が終わると猛暑だとか言っているうちにすでに猛暑で、
これからの夏本番に
「果たして生き延びることができるか」とか思ってしまう。
すでに「晩夏」というこの落差をどう受け止めよう…。
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夏が終わるといえば、真っ先に思い浮かぶのがこの一句。
飯島晴子さんの第一句集『蕨手』の巻頭句です。
泉の底に一本の匙夏了る
この句について、実際に泉の底に匙があったわけではないと、
晴子さんは自句自解のなかで言われています。
ここから感じ取れるのは「決別」ということ。
ただそれだけのためにこの句はあるような気がします。
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「増殖する俳句歳時記」のなかで清水哲男さんは
この句を以下のように鑑賞されています。
■作者はご自分の意志により、この(2000年)六月六日に死を選ばれたと聞く。享年、七十九歳。この句をもって、今年の夏句の打ち止めとしよう。第一句集『蕨手』の巻頭に置かれた句だ。「了る」は「おわる」。「終わる」よりも、ぴしりと完結したニュアンスが出る。「泉の底」に沈んだ「一本の匙」の金属性があらわになる。あらわになったところで、夏という季節への、きっぱりとした決別の歌となった。「匙」のつめたいイメージは、秋の気配をうかがわせる。が、注目すべきは、作者は来るべき秋には何も予感していないし、期待もしていないところだ。すなわち、みずからの過去(夏)への決別の思いのみが、静かにして激しく込められていると読む。いまにして振り返れば、巻頭に「了」が据えられた意味には深いものがあったようだ。でも、実はこの句について、こんなことを書きたくはなかった。いつここに掲載しようかと、ページ開設以来、大事にとってあった句だけに、まことに口惜しい。委細は省略するが、最後にお会いしたのは今年の春三月。東京のとある場所で、飯島さんは途中退席された。脳天気にも「また、夏にはおめにかかれますね」とご挨拶をしたところ、微笑されながらも「……もう、カラダがねぇ」と小声で言われた。そのとき、飯島さんの痩身がぐらりと揺れたような錯覚に、「あっ」と思った。悼。(清水哲男)
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「決別」というのはとても厳しく激しい行為と思うのです。
優柔不断な私はいつも「いやいや、そこまでしなくても」とか思ってしまう。
(だから晴子さんに憧れる)
でもそれがコトを、往々にしていっそう悪くすることもありますね。
自戒、自戒…。
晴子さんの句はいつも、とてつもなく深いのです。