ブロガーさんの記事を拝読していてハッとしました。

俳句の季節ではもう「晩夏」なのだと。

梅雨が終わると猛暑だとか言っているうちにすでに猛暑で、

これからの夏本番に

「果たして生き延びることができるか」とか思ってしまう。

 

すでに「晩夏」というこの落差をどう受け止めよう…。

 

*

 

夏が終わるといえば、真っ先に思い浮かぶのがこの一句。

飯島晴子さんの第一句集『蕨手』の巻頭句です。

 

泉の底に一本の匙夏了る 
                           

 

この句について、実際に泉の底に匙があったわけではないと、

晴子さんは自句自解のなかで言われています。

ここから感じ取れるのは「決別」ということ。

ただそれだけのためにこの句はあるような気がします。

 

*

 

「増殖する俳句歳時記」のなかで清水哲男さんは

この句を以下のように鑑賞されています。

 

■作者はご自分の意志により、この(2000年)六月六日に死を選ばれたと聞く。享年、七十九歳。この句をもって、今年の夏句の打ち止めとしよう。第一句集『蕨手』の巻頭に置かれた句だ。「了る」は「おわる」。「終わる」よりも、ぴしりと完結したニュアンスが出る。「泉の底」に沈んだ「一本の匙」の金属性があらわになる。あらわになったところで、夏という季節への、きっぱりとした決別の歌となった。「匙」のつめたいイメージは、秋の気配をうかがわせる。が、注目すべきは、作者は来るべき秋には何も予感していないし、期待もしていないところだ。すなわち、みずからの過去(夏)への決別の思いのみが、静かにして激しく込められていると読む。いまにして振り返れば、巻頭に「了」が据えられた意味には深いものがあったようだ。でも、実はこの句について、こんなことを書きたくはなかった。いつここに掲載しようかと、ページ開設以来、大事にとってあった句だけに、まことに口惜しい。委細は省略するが、最後にお会いしたのは今年の春三月。東京のとある場所で、飯島さんは途中退席された。脳天気にも「また、夏にはおめにかかれますね」とご挨拶をしたところ、微笑されながらも「……もう、カラダがねぇ」と小声で言われた。そのとき、飯島さんの痩身がぐらりと揺れたような錯覚に、「あっ」と思った。悼。(清水哲男)

 

*

 

「決別」というのはとても厳しく激しい行為と思うのです。

優柔不断な私はいつも「いやいや、そこまでしなくても」とか思ってしまう。

(だから晴子さんに憧れる)

でもそれがコトを、往々にしていっそう悪くすることもありますね。

自戒、自戒…。

 

晴子さんの句はいつも、とてつもなく深いのです。