「りんごアップルジュースと憲法」と題された小文が
『憲法学者の思考法』という本のコンテンツにあるのです。
著者は木村草太さん。
おもしろそうだったので、内容を簡単にご紹介しますね。
あるときゼミ生Aが自販機で「りんごアップルジュース」なるラベルの飲み物を見つけるのです。
そのとき彼は”このジュースはりんごではない”と思ったそうなのです。
「りんごジュース」と表示しても「アップルジュース」であっても、確実にりんごを原料とするジュースなのに、それを重ねるとなぜこんなにもうさん臭くなるのだろうかと、その話を聞いて木村さんも思ったのです。
で、この”うさん臭さ”について、木村さんはこう考えたました。
■ポイントは、「これはAである」との指摘は、その消極的な作用として「Aではないこと」を包括的に否定する、という点にある。たとえば、「今日は金曜日です」という発言は、今日が水曜日や木曜日や土曜日であることを否定する。「ここはゴルフ禁止です」という注意書きの看板は、「ゴルフをしてよいこと」を否定する。我々は「それ以外の何か」である可能性を否定するために、言葉を使うのである。
ところで、広く知られるように、こうした「それ以外の何か」である可能性の否定は、潜在的にはその可能性が存在したことを明らかにしてしまう。それ以外の可能性があるからこそ、否定する必要があるのだ。身動きできないほど狭いトイレの個室に「ゴルフ禁止」の張り紙はしない。つまり、「言葉にする」ことは、他であり得る可能性を認識しつつ、「あえて」他の可能性を否定する作業なのである。
だからこそ、不自然なまでに言葉を重ねると、そこで否定されたはずの「それ以外の何か」を我々は想起してしまう。そして、その過剰な言葉を発する相手が、「それ以外の何か」を隠しているのではないかと疑ってしまう。こうして「りんご」と「アップル」を重ねると、そのジュースがりんごではない可能性を却って強調してしまうのである。
ああ、なるほど、なるほど…。
で、ここからが本題です。
■ところで、法文も言語活動であるから、こうした現象はそのまま当てはまる。最近注目を浴びている日本国憲法の条文を読んでみても、「あえて」言葉ににしているものがいろいろ見つかる。例えば前文は、「諸国民の公正と信義に信頼し」と宣言する。外国を無条件に信頼することは難しい。だからこそ、その困難さを十分に認識しつつ、「あえて」それを実現するにはどうすればよいのか、という問いを投げかけるのである。戦争の放棄も同様だろう。外国とトラブルが生じた場合、平和的・理性的に対処するのは時に困難であり、短気に任せて、暴力に訴えたくなることもあろう。だからこそ、国際社会の一員として節度ある態度をとるために、「あえて」平和を宣言するのである。
ほんとうに戦争をするのはた易い。
あっという間に始まって、延々と続けられる。
当該国の市民は虫けらのように殺されていきます。
…だからこそ「あえて」平和を宣言するのですね。
木村さん、続けてこう言われています。
■これに対し、ある種の改憲派の人々は、「諸国民の公正と信義に信頼」などできっこないから、この言葉を削除しようと言う。これは困難だけれど忍耐強く頑張ろうという理想を捨てるもの、自分たちの能力不足を開き直るようなもので、あまりに情けない。憲法典は、自国民の規範であるのみならず、諸外国の人々も目にする公式文書である。国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うならば、そんな愚行は言語道断である。
削られようとする文言がある一方で、付け加えられる文言もあるようですよ。
■他方で、こうした改憲派の人々は、「国を愛する義務」や「家族が助け合う義務」を憲法に書き加えたりしようと主張する。その上、「私は愛国者」とまで付け加える。過剰な肯定が否定になってしまうという「りんごアップルジュース現象」からすると、これはなんとも愚かしい。そのうさん臭さは「りんごアップルジュース」を超えて、「りんごアップルジュース(リンゴ味)」並みだろう。
ということなんです。
さわりだけで、ごめんなさいね。
(※本文25~28ページです)