梅林やこの世にすこし声を出す

 

『増殖する俳句歳時記』には

この句が二度もとりあげられています。

鑑賞者は同じ清水哲男さん。

清水さん、よほどこの句が気になられたのでしょう。

私も一読、惹かれてしまいました。

 

不思議な句ですよね。

静寂が支配する梅林で、さあ、誰が声を出したのか?

作者か、あるいは人が立っているかのような梅の木々か、

それともカタチのない何者か。

思いめぐらすとクラクラし始めます。

 

*

 

この句は2001年と2004年に取り上げられており、 

以下は2004年の鑑賞文です。                         
 不思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。

 俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)

 

 

作句者の「あざ蓉子」さん、

とっても気になる俳人です。スター

熊本県玉名市でご活躍されています。